2008/08/12

主イエスを取り戻す

 主イエスの僕となるために、私たち信仰者は、もう一度主イエスを自分だけのお方として取り戻さなくてはならない。というのは、私たちは、教会に属するうちに、いつしか「自分だけの主イエス」という概念を失ってしまったからである。それでは主イエスは、誰のものなのか。教会が主イエスの体であり、私たちはその肢体なのである。つまり私たちは、一人で主イエスの御体を構成するのではなく、すべての信徒が集まって、初めて完全な主の御体が形成されるのである。
 いいだろうか、それゆえ、私たちは、「私だけの主イエス」という概念をもはや失ってしまっているのである。そこには、救われて初めて信仰告白したときのあの感動は、もはやない。教会生活の中で、私たちの意識は、利己主義的なものから共同体意識へと矯正され、お行儀の良いクリスチャンとして成長したことで得たものも多かったが、もしかしたら一番大切なものを失ってしまったのかもしれないのである。しかし、私たちが主イエスの僕となるためには、再びあの「私だけの主イエス」という思いを取り戻す必要がある。ちょうど、主イエスがご自身の御手で特別にペテロの足を洗われなかったなら、ペテロは主イエスと何の関係もなくなったであろうように、もしあなたが、「私だけの主イエス」という思いを持てないなら、あなたと主イエスは、また何の関係もないのである。
 それでは、どうしたら「私だけの主イエス」という思いをもう一度取り戻せるのか。どうしたら、主イエスは、もう一度私一人だけのものとなり、主イエスとのあの生きた交わりが取り戻され、私が「主よ」と呼びかけるとき、主が僕である私の名前を呼んでくださるというところまで回復されるのだろうか。その鍵は、実は私が主イエスにとって、その他大勢となってしまったところ、まさにそのところにあるのであり、そこにもう一度回帰する必要があるのである。つまり、私には兄弟姉妹と同様に、一つの体、一つの心が与えられている。それは、それだけでは、主イエスの御体を構成するたくさんの肢体の一つに過ぎない。しかし、聖書によれば、主イエスは、この私の体の中に、この私という一つの心の神殿の中に住んでおられるのである。私がそのことを信じるなら、私が使徒パウロのように、「生きるはキリスト」と告白し、自分の人生をすべて主イエスにささげ、信仰の人生を歩み始めるなら、主イエスは、そのような私の中に御臨在され、いつも私一人の主イエスでいてくださるということが実現するのである。そして、そのことが正に、教会が主イエスの御体であるという、さらに深い意味となるのである。ここにおいて、私は、主イエスの御体のたくさんの肢体の中の、本の一つ、一部分でありながら、その肢体の中に、主イエスご自身がすべて含まれて、御臨在され、私だけの主イエスであってくださるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/05/27

失われたものの回復

 私たちは、無垢から現在の状態に墜ち来たった。だから、毎朝ふとんの中で目が覚めるやいなや、昨日やりかけた仕事のことや、今日の予定、趣味や娯楽のこと、それから朝食のこと等を考え始める。しかし、神の僕が朝、第一になすべきことは、神の前にひざまずき、礼拝することではないのか。そのようにして、神の御心を求め、それを行う知恵と力を神からいただくことではないのか。
 このことでは、私たちの心は、すでに曇らされ、私たちの心の霊的な領土の多くは、悪の軍勢により占領されてしまっている。もし私たちがそのような状態で出ていったとしても、そこにはもはや勝利を望むことはできないだろう。だから、私たちの毎日は、いつも失敗と失望の連続である。今日もまた、一人の友を救うことさえできず、敗北の内に一日を終えることになる。そしていつしか、人生とは、信仰生活とは、そのようなものだと思い込んでしまっている。今こそ私たちは、失ってしまったものたちを取り返さなければならない。
 しかし、そこで問題なのは、私たちは、自分が失ってしまったものが何なのかということすら知らないということである。しかし、私たちの現状を聖書の御言葉の約束と対比して見たとき、失われてしまったものの大きさに呆然とせざるを得ない。どうしたら私たちは、それらを取り戻すことができるのだろうか。
 しかし、ここに一つの方法がある。それは、私たち一人々々が、主イエスの僕となることである。それにより、失われていた私たちの力、霊的な賜物、神のすべての約束と祝福、愛と平和が、もう一度私たちに取り戻されるのである。なぜかというと、第一に、もし私たちが主イエスの僕ならば、私たちは、主イエスと共に悪の勢力と戦わなければならないからである。私たちが主イエスの僕となる時、主イエスの敵は、私たちをも敵として認識し、戦いを仕掛けてくるのであり、そのようにして、そこに自動的に戦いが始まるのである。第二に、もし私たちが主イエスの僕ならば、私たちは、主イエスにのみ仕えるようになる。主イエスの主権が僕となったあなたに啓示されるなら、あなたは、どんな誘惑にも屈しなくなり、ただひたすら、永遠に主イエスだけに仕えるものとされるのだ。そして第三に、主イエスの僕となった人は、自分を知るようになる。自分が何のために創造され、今何のために生かされているのか、主がどこに座しておられて、自分がどこに立っているのか。そして、どのような力と祝福に満たされていおり、どこへ行こうとしているのか。そういったことのすべてを知り、父なる神からすべてを相続したことを知るのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/05/06

主権の啓示

『死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。』詩編23編4節
 私たちの人生で、時には死の陰の谷を歩かなければならないときがあるかもしれない。そこには、災いがあり、恐れがある。いったい何が私たちをそれに耐えさせ、これを超えて歩み行かせることができるのだろうか。おお、それは、「あなたの鞭、あなたの杖」、ただそれだけが私を力づけることができる。
 この「あなたの鞭、あなたの杖」とは、「主イエスの主権」のことである。それが私たちに啓示されるとき、私たちは、すべての災い、恐れにもかかわらず、それらを越えて進む力を与えられるのである。だから、私たちは、「主イエスの主権」を求める必要がある。それが私たちに啓示されるように。そのようにして、私の心と肉のすべてが主イエスの主権に服従するように。
 しかし、この「主イエスの主権」は、そう簡単には啓示されない。第一に、私たちはそれを切に願い求める必要がある。なぜなら、それは私たちを打つ鞭であり杖であるからだ。神が私たちを理由もなく鞭打たれるだろうか。神が愛する私たちを故なく杖で打たれるだろうか。しかしそれを願い求めた者には、それが与えられるのである。それを願い求めた者は、この鞭と杖を最深の意味で恐れることを授かるのである。そして、それこそが、あらゆる災い、誘惑から私たちを守ってくれるのであり、私たちに道を示し、それに進み行く力を与えるのである。第二に、私たちはそれを待つ必要がある。これは、神の主権に関わることなのである。それを与える人、それを与える時、それを与える場所、それらすべては神の主権によるのである。第三に、私たちはそれを期待する必要がある。上記のことに関わらず、私たちはそれを期待することができる。それを私たちに賜るのが神の御心だからである。そして、それゆえにこれを受けることは、何にも増して尊いことなのである。
 ああ主イエスよ、この啓示、あなたの主権の啓示を与えたまえ。与えたまえ。与えたまえ。我をして、あなたを最深の意味で畏れしめ、ただあなただけに従い行かせたまえ。私がこの人生で求める最も貴重なもの、麗しいもの、かけがえのないもの、慕うべきもの、それは、あなたの主権なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/05/03

神の働きをするために

 私たちが神の働きをするためには、特別な力が必要である。というのは、神の働きは、理論でも熟練でもないからである。それは、未来のこと、やがて成就されることの宣言であり、神のご計画の行使なのである。それゆえに、その実施には、なにか天的な力を必要とするのである。それは、賜物とか油注ぎとかとも呼ばれることはあるが、いずれにしても人間的ではない天的なものなのである。
 例えば、あなたが教えの賜物を神からいただいているとする。そのとき、賜物が働くということは、あなたが教えることにより、教えられている人たちが良く理解できるとか、成績が上がるとか、人間的に成長するといったようなことではない。それは、彼らが救われるということであり、神の栄光が現されるということなのである。同様に、あなたに賛美の賜物が与えられているとする。その賜物が働いたとき、聴いていた人が感動するとか、すばらしい音楽的な調和があるとか、そういうことではない。それは、それを聴いていた人の心が打たれて、神の前にひざまずくことなのであり、そのようにして、その場所に神の臨在がやってくることなのである。
 だから、そのような働きができるためには、あなたはそのために必要な賜物を神に願い求める必要がある。どのようにしたら、あなたがそれを受けることができるのか。それには、あなたが主イエスの僕となることである。主イエスは、その僕にご自身の持っておられる賜物をお与えになるからである。そして、主イエスはまた、その者にご自身の油注ぎを与えられる。主イエスは、かつて弟子たちの中から何人かを選び、付近の町々へ使わされた。そのとき、悪霊が彼らの言うことを聞き、人々から出て行くような権威を与えられた。この権威は、主イエスから出て、その僕の上に留まるのである。それは、彼が主イエスの僕として神の働きを成すことができるためである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

主イエスとの出会い

 「主イエス様、私をあなたの僕としてください。」この祈りは、あなたが完全に主イエスのものとなるための祈りである。しかし、それはなかなかかなえられないかもしれない。それは、あなたが長年自分だけの力で生きてきたので、あなたが簡単には、自分を主イエスに明け渡せないからである。しかし、この祈りを何度も祈っているうちに、次第に、少しずつあなたの中から力が抜けていくのを感じるだろう。それは最初、なんだか気だるさを伴うように感じられるかもしれない。あなたにとって、それは、少しばかり不快感と不安をさえ伴うものかもしれない。しかし、それでもあなたが切なる願いをもって、主イエスの僕となることを願い、祈るならば、次第に主イエスご自身があなたに近づいて来られる。そして、あなた自身も主イエスに近づいて行くのである。それは、あたかも目隠しされたあなたが主イエスを求めて手探りで近づいて行くようなものである。しかし、この試みの中で、あなたは確実に主イエスに近づいて行くのである。それは、主イエスご自身があなたをご存知だからである。そして、あなたが主イエスと出会うための次の段階にあなたは到達することになる。
 主イエスと出会うための次の段階は、あなたの内に、主イエスを慕う切なる思いが湧き起こることである。あなたの願いは、ただただ主イエスとお会いすることだけになる。あなたの心は、主イエスに向かって渇き、主イエスを求め、ちょうど聖書に「鹿が谷川の水を慕うように…」とあるように、あなたの心は主イエスに向かって渇き、焦がれるようになる。この切なる思いがあなたの心に湧き起こるならば、あなたは主イエスを知り始め、主イエスはあなたに近づいて来ておられ、あなたはその気配を感じ始め、その麗しい香りに接し始めたのである。この段階の祈りは、すでに香しいそよ風のなかにいるような麗しさをもってあなたを魅了する。それは、主イエスの御臨在であり、あなたはそれを求め、長く座って祈っても苦にならなくなる。あなたはこの主イエスの気配を慕い、祈りの座に座るようになる。これは、主イエスが「求めなさい、そうすれば与えられるであろう」と言われたことによるのである。
 主イエスとお会いするための次の段階は、主イエスが「探しなさい、そうすれば見出すであろう」と言われたことに対応する。驚くべきことに、あなたは、あなたに近づいて来られている主イエスを探さなければならない。この霊的な世界の探求は、すべてあなたに委ねられているのである。この世界は、すべてが積極的である。それは、ちょうど主イエスが、「天国は今に至るまで力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」と言われたようである。しかし、あなたが主イエスを求めて探すとき、それは遠くまで出て行って探し回るのではない。主イエスは、実にあなたのすぐそばまで来ておられるのである。あなたの手の届くところ、息が掛かりそうなところに主イエスは来ておられるのである。これが主イエスの積極性であり、それに対してあなたの積極性は、彼を探すということである。この二つの積極性が出会うとき、感動的な出会いが起こるのであり、これはどうしてもそうでなければならないのである。それは、ちょうど恋人たちがかくれんぼをするような喜びに満ちている。そしてあなたは、このことを知らなければならない。それは、主イエスとあなたは、そのように互いに慕い合う間柄だということである。それは、聖書に書かれているように、実に花嫁と花婿の関係なのである。そのようにして、あなたがあなたの回りで主イエスを探すとき、主イエスはそこにおられ、あなたは主イエスを見出すのであり、主イエスはそのことを言われたのである。すなわち、「探しなさい、そうすれば見出すであろう」と。
 あなたが主イエスとお会いする最後の段階は、主イエスが「たたきなさい、そうすれば開かれる」と言われたことに対応する。あなたの近く、ほんの近くに来ておられる主イエスを探して、麗しい探求の中にあるあなたに、ついにある瞬間が訪れる。それは、あなたの心に突然に、「たたく」という衝動が湧き起こることである。それは、いつということは言えない。それはもう、もはやあなただけの行為ではない。その衝動は、実に主イエスから来るからである。ちょうど主イエスがあなたが差し出した両手にご自身の御手で触れられるように。しかしこの「たたく」という衝動があなたに与えられるやいなや、それは激しい衝動となってあなたの内からあふれ出る。あなたは、主イエスに向かって、ただひたすらに扉をたたき続ける。それ以外にもうあなたの成すことはない。しかしあなたが主イエスとお会いするために、そのことがどうしても必要なのである。そしてついに、主イエスが言われたことがあなたに実現する。「たたきなさい、そうすれば開かれる」と言われたように、その扉があなたのために開かれるのである。そして、主イエスが出てこられる。そのようにして、あなたは主イエスとお会いするのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/05/02

しもべの権威

 主イエスの僕となった者に、主イエスはご自身を啓示される。死から復活した栄光の力あふれる御姿を啓示されるのである。その啓示は、恐ろしいものではなく、麗しいもの、愛そのものである。通常、私たちは、例えば「戦い」と言った場合、怒りと恐怖、征服と悲惨、その類のものを思い浮かべるかもしれない。しかし、旧約聖書は明らかに、戦いについてそのようなイメージを語ってはいない。そこで語られ、啓示されているものは、勝利、栄光、守り、約束、清さ、勇気、友情、そして、「愛」ですらあるのである。それは、旧約聖書において、戦いは「聖戦」であり、それはこの世のものならぬ天的なものだからである。すべてのものは、それがこの世的なものかそれとも天的なものなのかにより、当然だがその内容も大きく変わってくる。仕事でさえ、それを神から備えられたと信じるか否かにより、その祝福も変わってくるのである。まして戦いに至っては、天と地の差が出てくるのは当然である。それは、旧約聖書の中心的な主題だからである。
 そこで、僕となった者に啓示される主イエスの御姿も、この聖なる戦いに出て行かれる雄々しく、そして愛にあふれたキリストの御姿なのである。私たちは、この主イエスの御姿を自らの想像力で創り出すことはできない。それは、あらゆる面で私たちの思いを越えている。そして、私たちが「主イエス様、私をあなたの僕として下さい」と祈るとき、その雄々しい御姿が祈る者に正に啓示され始めるのである。
 それは、どのように啓示されるのか。それは、そよ風のようにあなたの心を吹き渡り、すがすがしくも新しい感動をもってあなたの心を満たすのである。その風は聖霊の風にして、神の愛の風なのである。それがあなたに啓示されたとき、もしかしたら、あなたはそれに気付かないかもしれない。それは、明らかに啓示されているのに、なぜあなたがそれに気付かないのか。それは、それがあまりにもやさしいからである。その風の強さは、あなたが主イエスの僕になっている度合いによるからである。しかし、あなたがますます主イエスの僕となるに従い、その風はいよいよ強さを増してくる。それは、ついにあなたに覆いかぶさるようになる。それは、文字通りあなたを僕とし、囚人とし、奴隷となす大いなる主権となる。しかし、主イエスがそのようにされるのは、あなたが彼にそのことの許可を与えた場合に限られる。主イエスは、紳士なるお方であり、あなたの許可なしにそのようなことをなされることはない。しかし、それがあなたの切なる願いになるやいなや、主イエスは、あなたをご自身の僕と認識される。そして、あなたにご自身を明らかに現されるのである。そのときから、主イエスの権威があなたに与えられる。あなたの手は主イエスの手となり、大いなる働きをなすようになる。主イエスがあなたと共に働かれるからである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/05/01

この世の縄目からの開放

 パウロは、ピレモンへの手紙の中で、自分を「キリスト・イエスの囚人」と呼んでいる。そのように主イエスの僕となることは、文字通り主イエスの囚人となることなのである。
 囚人は、監獄の中に一人捕われている者である。そして、僕は一人の主人にのみ仕えるものである。それゆえ、彼はその他のこと、すなわちこの世的なすべてのことからは、完全に自由なのである。それゆえ、見よ、主イエスの僕は、この世的なすべてのことから自由とされた者なのである。
 今のあなたには、自分の仕事が、または職場が、家庭が、学校が、社会が重荷だろうか。もしそうだとしたら、主イエスの下にひざまずき、その囚人となることにより、あなたは自分の重荷から解放されることができる。あなたが本当に主イエスの僕となることを願い、望み、それを実行するならば、あなたは今の重荷から完全に解放されることができる。しかしそれは、単に、精神力で仕事から目をそむけ、主イエスへの祈りに集中するというようなことではない。あなたを解放するのは、主イエスご自身だからである。もしそうでないなら、主イエスの僕となることには、何の意味もない。しかし、主イエスは復活して、今確かに生きておられ、その全能の御力により、あなたを力強く解放されるのである。
 どのようにして、主イエスの僕となり、その解放の力を受け取れば良いのだろうか。それは、まず、主イエスに向かってひざまずくことから始まる。そして、祈りの中で、主イエスに対して、その僕になることを願うことを申し上げる必要がある、「主イエス様、私をあなたの僕としてください」この祈りを祈るとき、あなたは、この祈りの力を知るに違いない。第一に、この祈りは、何度祈っても、終わることがない。この祈りは、飽きることがないのである。この祈りは、あなたが主イエスの僕となるまで、決してあなたを飽きさせることはない。なぜなら、この祈りがあなたを主イエスの僕とし始めるからである。そして、主イエスの僕となり始めるやいなや、あなたは開放を体験し始める。あなたが自分の意思で開放を願う必要はない。あなたの祈りは、ただ「主イエス様、私をあなたの僕としてください」これだけで十分である。すると生きておられる主イエスがあなたの祈りを聞き、あなたに手を差し伸べ始められるのである。このことが起こらないならば、主イエスは生きてはおられない。しかし、主イエスは実際に復活して、今生きておられるのである。それゆえ、このことは必ずあなたに起こることなのである。
 そのために、すなわち、上記のことがあなたに起こるために、あなたは、肩の力を抜かなければならない。自分の努力で何かをするということをやめなければならない。あなたは、会社で、家庭で、社会で、学校で、そのように事を運んで、そのような努力に慣れてしまった。しかし、主イエスの僕となることは、そのようなことではなく、自分の努力を一切やめるということであり、そのようにして主イエスの下にただただひざまずくことなのである。なぜなら、主イエスに従うということは、天国の法則に従うことであり、主イエスの僕となるということは、天国の人種となることだからである。あなたの肩から力が抜け、あなたがただただ主イエスの下にひざまずき、彼を待ち望むとき、あなたはまた、すべての望みを捨てなければならない。そのように無一物となることが、主イエスの囚人となることであり、そのことが主イエスの僕となることなのである。そのとき、あなたは自分がもはやこの世の法則の外にいることを発見するだろう。この世の法則、それは、医者に行かなければ病気は治らないとか、努力しなければ出世できないとか、苦労しなければ幸福になれないとか、その他いろいろなことである。それらは、この世界では通用しても、天国では通用しない。そして、主イエスの僕は、この世の法則には支配されない。主イエスは、この世の法則には支配されなかった。そして、主イエスの僕もまたそうなのである。そして、これらのことがあなたに起こるために、あなたが成さなければならないただ一つのことは、主イエスに次の祈りをお捧げすることである、すなわち「主イエス様、私をあなたの僕としてください」と。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/30

聖別

 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところもない」とキリストは言われた。これがキリストの僕の身分である。キリストご自身が、そのような状況に身を置いておられたのである。しかし、使徒パウロが言ったように、そのような状態の中にあっても、私たちは、人に十分与えることができるほど富んでいることが可能なのである。もし私たちが、自らキリストの僕の状態に身を置くならば、野原で5000人を養うことさえ可能なのである。なぜなら、それを行われるキリストが私たちと共におられるのだからである。
 しかし、それが空しい言葉とならず、現実となるために、私たちは次のことを知らなければならない。すなわち、それは、私たちがキリストの僕である場合にのみ私たちに起こるということである。あなたがキリストの救いを信じて神に帰依したとき、あなたには救いの喜びが湧き起こる。それは、正に天の喜びであり、かけがえのないものである。しかしその後さらに、もしあなたがキリストの僕となることをも意志するなら、聖書に書かれている勝利があなたのものとなるのである。それは、あなたがキリストのものになったからであり、キリストは、ご自身の僕を信頼され、彼にご自身を現されるのである。
 キリストにおける恵みは、信仰者に対して絶妙なバランスで働く。それは、救う側と救われる側のバランスである。キリストの救いを受けるためには、私たちは完全にキリストの足元にひざまずくことが必要である。そして、そのような者に救いは無償で与えられる。もし彼が両手をキリストに向けて差し伸べればである。この救う側と救われる側は、この救いの御業の中で、共にその尊厳を失うことなく融合している。救う者は、僕の形を取りながら、大能の君と呼ばれる。救われる者は、罪人とされながらも「あなたは高価で尊い」と呼ばれる。この救う側と救われる側は、共に神の御姿に創造された神の種族なのである。キリストとその僕の関係もまたそうである。キリストは復活され、力ある神の御子と定められた。そしてその前にひれ伏す者たちも、キリストと共なる勝利者と呼ばれ、キリストは彼らを友と呼ばれるのである。
 あなたが今日、キリストの僕となることを決意し、キリストの足元にひざまずくならば、あなたの内にキリストの栄光の御姿が啓示される。キリストがご自身をあなたに現されるのである。そして、そのとき同時にキリストの権威があなたに与えられる。そのときから、悪霊はあなたの名前を知るようになる。そして、彼らはあなたの命令に聞き従う。あなたがキリストの僕だからである。「キリストの僕」それは、何と言う栄光の姿だろうか。旧約聖書のサムエル記を読んでみたまえ。そこにダビデの勇士たちの雄々しい姿が記されている。キリストの僕であるあなたは、一本の槍で、何千、何万という敵を打ち倒す者になるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

復活のキリストを仰ぎ見る

 キリストは、十字架で私たちの罪を購って下さった。そして、死んでから三日目に復活し、天に戻って行かれた。これらの受難のストーリーは、繰り返しキリスト教会で語られることにより、その内容が空しいものとされたとキルケゴールは指摘した。確かに、この救いのストーリーを聞きながら、それに応答することがいつまでも成されないなら、その内容は空しいものとなり果ててしまうに違いない。なぜなら、この救いのストーリーは、それを聞く者にまさに応答を要求しているのだから。その応答とは、それを聞いた者が、ただ感謝する状態に留まるだけでなく、自らキリストの僕となることなのである。
 しかしこれまでに、いったいどれだけのキリスト教会で、このことが勧められてきただろうか。私の見たところでは、どの教会においても、ただただ救いの恵みを感謝して受けることのみが語られるばかりで、キリストの僕となることについては、それを語ることがあたかも禁じられているかのように、説教者も口を閉ざしてしまっているかのようなのだ。
 しかし、キリストと日々交わり、彼に従おうと願う者は、次ようなのことに思いを馳せるに違いない。すなわち、キリストは復活して、いま何をしておられるのか。キリストは、いまどのようなお姿なのか、ということである。それに対して、十字架に架かったお姿のキリストを思い浮かべることは、私たちの救いを確認することにはなっても、そこから私がキリストに従う力は出てこない。というのは、キリスト御自身が十字架に架けられた状態のままである限り、私はキリストに感謝し、彼に忠誠を誓うことはできても、彼と共に戦うことはできないからである。そのように、私の心の中のキリストが十字架に架けられたままであるなら、私の信仰の戦いは、私自身の決心と孤独な戦いの域を出ないものとなる。その結果、信仰の歩みを進めるのは、私たちの側の努力となってしまうのである。そこで、十字架の福音により、私たちは死人の中から立ち上がることはできても、そこから歩き出すためには、キリストの復活の力を必要とするのである。死から復活された栄光の力に満ちたキリストの御姿こそが、私をして、信仰の戦いを勇ましく進み行かせるのである。そこでは、キリストが救いの象徴ではなく、実際に共に戦われるお方となられるからである。
 しからば、復活したキリストの姿はどのようにして信仰者に啓示されるのだろうか。私たちは、キリストが王の王にして万軍の主であることをしっかりと心に刻む必要がある。そして、このことをしっかりと認識した者は、その当然の帰結として、次のことに思い当たるはずである。それは、キリストが王であり、万軍の主であるかぎり、その御姿を仰ぐことができるのは、王と戦いを共にしている兵卒であり、勇士のみであるということである。かつて軍の先頭に立って出入りしていたダビデの雄姿を仰ぐことができたのは、彼と共に戦場へ出向いた兵士たちだけであった。家にいて、日常的な生活を送っていたイスラエル人は、凱旋したダビデの姿を見ることはできても、敵を打ち負かす、力に満ちたダビデの雄姿を垣間見ることができた者はいなかった。王であり万軍の主であるダビデの雄姿を仰ぐためには、どうしても戦場へ出て行くことが必要なのであった。現代を生きる私たちも同じである。神の民の先頭に立って進み行かれるキリストの雄姿を仰ぐことができるためには、私たちは自ら戦場に身を置かなければならない。私たちは、日常の安穏とした生活を離れ、主の兵士とならなければならないのである。このことに関して、今日、キリスト者の目は曇らされ、その感覚は麻痺させられているとしか思えない。というのは、誰もそのことに気づいていないように思われるからである。そして、毎週の礼拝においては、ただただキリストのありがたい救いのことだけが繰り返し繰り返し何度も語られ、力ある者たちもうんざりしながら帰路に着くのが常なのではないか。
 私たちは、今こそ、復活された王の王、万軍の主なるキリストの雄姿を心に映していただくために、自らキリストの僕となり、すべてを捨て、自分の十字架を負って、戦場へ出て行かなければならないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

救いとキリストの僕

 キリストの十字架の購いを信じ、悔い改めて救われた者は、それだけではまだキリストの僕ではない。自分が救われ、主イエスへの信仰を公に告白し、キリスト教会に属する者とされた者、毎週教会に通い、家では聖書を読み、祈り、賛美の毎日を送る者も、それだけでは、未だキリストの僕とされたのではない。それでは、キリストの僕となるとは、どういうことだろうか。
 それは、彼がこの世的なすべての望みを捨てるということである。彼が、キリストの軍隊に属するということである。なぜなら、キリストが、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子には枕するところもない」と言われたからであり、パウロも「競技をする人は皆、すべてに節制をする」と言ったからである。キリストは、十字架と復活により、悪魔に完全に勝利された。しかしその時点では、悪魔は滅ぼされることはなかった。それは、終わりの日まで神により存続を許されているのであり。それゆえ現代は、いまだ悪魔との闘いの時代なのである。それは、神のご計画であり、信仰者がキリストに続いて、この戦線に連なるよう意図されたのである。この意味で、旧約聖書のすべては、この戦線に連なる者にとって、大いなる教えの書である。旧約聖書には、まさにこの闘いと勝利が記されており、敗北もまた私たちへの警告としてそこに記されているからである。そして、それら以上に、そこには、私たちが僕として、兵卒として、どのようにキリストに従うべきかが明確に記されている。そして、そのときに私たちがどのようにキリストによって勇士にされるかが明確に記されているのである。ちょうど、ダビデの僕たちが、彼によって勇士にされたように。
 人が救われるためには、その人とキリストだけがいれば十分である。そして、それ以外のものが二人の関係の間に入り込むとき、救いは効力を失いはじめる。キリストを愛する彼の目に、他の信仰者の姿が映り始めるとき、彼は、キリストにとって、その他大勢の中の一人となり始める。それゆえ、信仰生活を送るうちに、彼の心は純粋さを失い、生活は色あせ、力ないものとなってくる。しかし、彼がキリストの兵卒となろうと決心したなら、すなわち、彼がキリストの僕となることを意思するなら、彼の信仰は、新たな前進の力を得、その歩みは再び力強いものとなる。彼は、その他大勢の中の一人であることをさえ楽しむことができるだろう。彼は、勇士である。ダビデには、多くの勇士たちがいた。そして、それらのすべてが名高い戦士であった。聖書に彼らの雄姿がなんと生き生きと描かれていることか。彼らは、もはやキリストの愛をむさぼることはしない。彼らはキリストを愛し、キリストのために自分の命を捧げることを願う者たちである。そして、それゆえ彼らは勇士であった。
 もしキリスト者が、いつまでも自分の救いを感謝する状態の中に留まり続けるとしたら、それは、彼にとって危険ですらあるだろう。彼が救われるときに受けた愛は、無二の愛であり、そのとき、キリストはただ彼のために死なれたのであるから。彼が救われ、キリストの愛を知るためには、それがただ彼だけのためであることが必要だったのだ。それゆえ救いは、「キリストはあなたのためにも死なれた」とは言わず、「キリストは、まさにあなたのために死なれた」と言う。しかし、救われた者は皆、実はキリストの僕となることに招かれているのである。聖書を読めば、福音書において、キリストはそのように私たちを招いておられるのが分かる。そして、そこに書かれている祝福と力も、すべてキリストの僕に対してのみ約束されているのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

おみやげの写真 | そうじゃな~い! | たわいのないものたち | とりとめのない話 | イザヤ書研究 | エズラ記研究 | エゼキエル書研究 | エックハルト研究(参考文献:「エックハルト説教集」 田島照久編訳:岩波文庫) | キリスト信仰の体験記 | キリスト教の疑問 | キルケゴール研究(参考文献:「死に至る病」:斉藤信治訳:岩波文庫) | サムエル記上研究 | サムエル記下研究 | ドン・キホーテ前篇(一) | ニーチェ研究(「ツアラトストラ(上)」より) | ネヘミヤ記研究 | ビジネスマンへの道 | ブルトマン研究(著書:「イエス」より) | ボンヘッファー研究(「共に生きる生活」より) | マクグラス研究(歴史のイエスと信仰のキリスト:近・現代ドイツにおけるキリスト論の形成) | マタイの福音書研究 | マルコの福音書研究 | ヨハネの福音書研究 | ヨブ記研究 | ルカの福音書研究 | レビ記研究 | ローマ人への手紙研究 | 主イエスのしもべ | 人生の問い | 伝道メッセージ | 使徒行伝研究 | 六弦 | 出エジプト記研究 | 列王記上研究 | 列王記下研究 | 創世記研究 | 情報宣教方法論 | 新改訳聖書に関する疑問 | 新約の時代 | 新約聖書研究 | 歴代誌上研究 | 歴代誌下研究 | 死人がよみがえる | 民数記研究 | 病人をいやす秘訣 | 私のたからもの | 続・エックハルト研究(福音信仰からの光) | 続・ニーチェ研究(「ツアラトストラ(下)」より | 続・ブルトマン研究(ヨハネの福音書) | 続・ボンヘッファー研究(「行為と存在」より) | 続・マタイの福音書研究 | 続・新改訳聖書に関する疑問 | 続・続・エックハルト研究(批評) | 続・続・続・エックハルト研究(信仰の刷新を求めて) | 続・続・続・続・エックハルト研究(キリストのうちに自分を見いだす) | 続・続・続・続・続・エックハルト研究(神の子とされる) | 続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神に仕える) | 続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神に知られる) | 続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神秘主義の光) | 続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神との合一) | 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(認識の光) | 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(変容) | 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(王) | 聖書に関する随想 | 聖書の実装 | 聖書の矛盾研究(「バカダークファンタジーとしての聖書入門」を読んで) | 聖霊の賜物を受ける | 解析学研究 | 詩篇研究 | 道を走る | 遠藤周作研究(「沈黙」より) | 野の花 | KJV翻訳:その意図 | KJV翻訳:創世記