2008/06/15

約束

ヨハネの福音書(第14章15~31節)

 ここの主題は、パラクレートス(聖霊)である。ブルトマンは、聖霊についてどう考えているのか。しかし、非神話化を提唱する彼が、意外にも「霊」という言葉を使う。彼は言う、「教会にとってイエスがそれであったものに霊がとって代わるのである」と。しかし、同時にそれは、「強力な身体的または心霊的な体験によって証明される呪術的な力でも、教会に対して力を行使し、教会は無責任にただ待っていさえすればよいような力でもない。むしろ霊は教会において言葉の宣教を推進する力である」と。そればかりでなく、教会は、そこに働く霊によって、自ら主イエスの体として実存するのである。つまりブルトマンが言うように、「宣教については教会に責任がある。その責任を果たすことによってだけ、教会は啓示の言葉としての言葉の力を体験する」のである。ブルトマンは、主イエスとその御体としての教会の関係をもう一度明確にしたいのである。そしてそれは、教会が約束されている終わりの日まで、自らの信仰を堅忍し、与えられた世界宣教の使命を全うするために必要なことである。すなわち、教会の源動力は、生前に主イエスが語った言葉であり、主イエスはそれをご自身の後の体としての教会を通して世に語ろうと意図されるのである。
 さて、このパラクレートス(聖霊)到来の約束は、ここに述べられている他の2つの約束、すなわち、「イエスの再来の約束」及び「神の到来の約束」と同値であるとブルトマンは言う、「まさに霊の到来において彼自身が到来する。まさに霊に担われた教会の言葉の宣教において彼自身が啓示者として働くのである」と。また彼は言う、「イエスは彼自身では何者でもない。彼と交わることを望み、それを許される者は、神自身の威厳の現臨在を確信しなければならない」と。これは、正にブルトマンが提唱する聖書の実存主義的な解釈である。すなわち、「啓示者である人間イエスに対するかつての信仰の関係は、教会時代における終末論的実存への移行を意図されていた」のである。

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2005/03/17

神秘主義的な神認識の意義

研究:論述「離脱について」

 エックハルトの神学を一言でまとめるとこの説教のテーマである「離脱」になる。「離脱」とは、人の心が被造物から離れ去ることを意味する。これは一見逃避のような消極的な行為にも見えるかも知れないが、エックハルトにあっては、これがたぐいまれな積極的行為となっている。
 彼によれば、じつに全能の神もこの「離脱」の内に立っており、全宇宙はその不動性によって動かされているのである。そこでこの「離脱」はエックハルト神学の根底的な概念と言えるだろう。そして彼の神学は、ある面でカルビン派の「予定論」のような外観を呈している。
 『神には新たに何かをなすということはない。すべてがあらかじめなされてしまっているからである。』
 そのような意味でこの「離脱」は、カルビン派の「神の主権」に対応するものと言えよう。しかしこの二つは、いくつかの観点から、かなり異なっているように見える。
 まず「神の主権」は全能の神だけに適用される概念であるのに対して「離脱」は、神と魂の両方に適用されるものである。次に「神の主権」から導かれる「神の予定」はそれに起因するところの「神の選び」を通して人間の自由意志を制限、操作さえするものであるのに対して「離脱」は、人間と神両者の自由意志の融合の上に成り立っているからである。このような観点から、例えばエックハルト神学とカルビニズムを対比させた研究は、その教理の構造や宣教の形態と歴史、信仰コミュニティーのあり方等を含め、非常に豊富な題材を持つと思われる。このブログではそれに立ち入ることはしないが、カルビニズムの観点からしばしこの「離脱」というものについて考察してみたい。
 そもそもエックハルトは「予定論」を意識していたのだろうか。カルビンがルターと共にプロテスタントの創始者的な存在であり、その意味でカトリックにプロテストして外へ出て行ったものであることから、エックハルトがカトリックの修道師として、批判的あるいは自己反省的にそれを研究するようなことはたぶんあり得たであろう。しかしこの「離脱」という概念が「予定」や「神の主権」の教理から導き出されてきたとは、どうしても思えない。というのは、「予定」から「離脱」が導かれるという方向ではなく、むしろその逆に「離脱」から「予定」が帰結するのだからである。
 そして、すでに上で考察した「神の主権」に対する「離脱」の独自性から、エックハルトの神学における「予定」や「予知」の概念は、彼独自のものであると考えられる。もっともエックハルトは「予定」という言葉を使っていない。厳密には、エックハルトの神学に「予定」という概念はない。そこにあるのは「予知」だけなのである。というのは、エックハルトの神は、予定されたことを時間の中で主権を持って成し遂げるような神ではなく、天地創造の遥か昔にすべてのことをすでに成し終え、それらから離脱してしまった神であるからだ。そして、時間の中では、私たちの精神として、魂として、霊として生きている神なのだ。聖書の神は、御自身を「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼んでいる。
 それでは、すでに確立されているカルビニズムの他に、それと似て否なるエックハルトの神学に目を向ける意義はあるのだろうか。私は、それは多いにあると思う。
 というのは、カルバンの予定論は、神の絶対主権の教理により正統主義の堅固な礎を据えると同時に、また多くの精神衛生上の弊害ももたらしたように思えるからである。実際、この世界に救いに定められている人々と滅びに定められている人々がいるなどということをそのまま信じることが正常な精神に可能だろうか。そこには、なにかこう無限の神を有限の時間へ投影した結果生じた歪のようなものが随所に見られるようだ。これは、カルビニズムに顕著に思われるが、他のアルミニズムであれウェスレアニズムであれ、程度の違いはあれ、この歪が感じられる。
 それに比べてエックハルトはどうであろうか。彼はそのように、無限の神を有限の世界に投影するようなことはしなかった。彼は、無限の神を神秘の世界に投影したのである。そして、「離脱」という実践的な手法により、この神秘のベールの中に入り、その中で無限の神の認識に迫ったのである。
 このブログのカテゴリーにおいては、エックハルトの神学に福音主義の立場から光を当ててきたつもりだが、これでこの研究の幕をひとまず閉じたい。今後は、もう一度聖書に戻り、今度はこの研究で得られたものを持って、聖書を深く読んで行きたいと思っている。

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2005/03/15

飽くなき探求

研究:神と神性とについて

 この説教の中でエックハルトは『神は成り、神は消える。』と言っているが、それはどういう意味だろうか。
 彼によると「神が成る」のは「すべての被造物が神と言うとき」すなわち被造物(この場合は魂)が神のことを考えるときである。つまり「神」とはエックハルトによると「被造物自身が自ら作りだした概念」、あるいはそのように言うのがもしためらわれるならば「被造物のために設定された概念」なのである。つまり、私たちが「神を見る」と言う場合、そこに見られているものは「神そのもの」ではなく、むしろ私たちの一部なのかもしれないということである。私が見るものは、私の目のレンズを通り、私の目の網膜に像を結ぶのであり、さらにそれが私の頭脳により、先入観というフィルターを通して解釈されるのである。しかしエックハルトによると、それでも神はそのような私たちを通してこの世界と関わられるのである。
 『神はすべての事物において神自身を味わう、というわたしの言葉にもどろう。・・・・すべての被造物は、わたしのうちで精神的に存在しようとして、みずからをわたしの知性の内へと運び入れるのである。すべての被造物が神へと再び帰りゆくのを用意するのは、わたしだけなのである。』
 「すべての被造物は、その最高の完全性を求めて運動している。」とエックハルトは言う。この「最高の完全性」とは上の表現から、被造物が御子を介して、父なる神から神の子となった魂に相続されることである。そのようにして、すべてが父なる神の元に帰り、一つとなることである。これに関しては、パウロも「被造物は、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。」と言っている。
 魂を含む被造物がこの「最高の完全性」に至ったとき、そこには三位一体の三つの位格さえも残ることはないとエックハルトは主張するのである。三位一体は私たちが被造物を相続するために与えられた神概念だと彼は言いたいのだろう。たとえそれが永遠の真理だとしても。
 『わたしが「神」の内へ帰り来て、「神」のもとに立ちとどまらなければ、わたしのその突破は、わたしの流出よりもはるかに高貴なものとなる。わたしひとりがすべての被造物を、わたしの内で一となるよう、その精神的有から私の知性の内へと運び入れるのである。』
 エックハルトにとって、私たちの内にある「神概念」は突破されるべきものなのである。そして、言葉では言い表せない「生ける神」の内に入ることを希求するのである。そしてそのとき既存の神概念は突破される。これは、ヨハネの黙示録に書かれている「白い石」そしてその上に書かれている「新しい名」のことが想定されているのだろうか。私としては、いまそれに言及することさえ恐れるのだが。
 それにしても、聖書には福音信仰をもってしては説明が困難な事柄が少なくない。かつてどこかの教会の牧師が信者のある姉妹から「白い石を見せて欲しい」と言われ、困った末、ちょうど家の中にあった白い石をもってきて「これだよ」と言ったということを人伝に聞いたが、なにかこう一抹の寂しさを感じる話ではある。しかしエックハルトは真理の探求に関して決して妥協しない。彼は自分の魂を賭けてこう言うのである。
 『この説教を理解した人がいれば、その人にこの説教をわたしは喜んで捧げたい。しかしたとえここに聞く者がだれひとりとしていなかったとしても、わたしは今日の説教をこの献金箱に向かってでもしたにちがいない。これから家にもどり「慣れたところで、いつものパンをかじり、神に使えりゃいい」というあわれな人も多くいることであろう。わたしは永遠なる真理にかけて言うが、このような人たちはいつまでも迷いつづけなければならず、心の貧しさを手に入れることもなく、新たな天地のもとで神に従いゆく人たちが勝ち取り獲得するものを決して手に入れることもないであろう。アーメン』

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2005/03/11

「徳」の必要性

研究:観想的生と活動的生とについて

 『神が人と成り、人が神となったそのはじめから、キリストはわたしたちの永遠なる救いのために働きはじめ、十字架上の死に至るまでずっと働きつづけたのである。』
 エックハルトの福音理解は、伝統的な福音信仰と多少異なっているように思える。福音信仰は、主イエスの十字架の購いの事実に集中する傾向にある。しかしエックハルトは、広くキリストの全生涯に着目する。
 彼は、聖書に取り上げられていないような日常生活の細々とした部分までが、神の栄光に大きな影響力を持つと考えているようだ。そのような考えから彼は「徳」というものを信仰上重要な要素と定義するのである。この「徳」の実践においては「意志」が重要な役割を担う。その場合「感性的な意志」は「知性的な意志」に聞き従うことが必要であり、それは人が主イエスや聖者たちの業を拠り所として、その言葉や振る舞い、「生業」を最も高きものに秩序づけて同じようにしていくことだというのである。しかし、それだけでは単なるまねごとにすぎない。エックハルトの独自性はその後に続くことの中にある。
 『これらすべてが満たされると、神は魂の根底にさらにもう一つの意志を置く。それは聖霊の愛による掟をともなう「永遠なる」意志である。すると魂は、「主よ、あなたの永遠なる意志のなるごとく、わたしにもなさせたまえ」と語るのである。魂がこのような仕方で、先に述べたことを満たし、それを神が気にいると、愛する父は魂の内に父の永遠なる言を語るのである。』
 この「永遠なる意志」とはいったい何だろう。これは少なくとも人間が作りだしたものではない。かといって神から与えられたものとも言えない。それはその神に従う人の内に永遠の昔からあったものであり、また永遠に変わることのない意志なのだ。その意味ではそれは神から与えられたものとも言えるかも知れないが、決して後からのものではない。そういう意味ではエックハルトによると、それはまた同時に作られたものでも与えられたものでもない。
 エックハルトは、この「永遠なる意志」にしたがって生きるときに、私たちの人生は、すべての迷いから解放され、真に神に役立つものとなると主張するのである。『聖者たちは聖者となるときはじめて徳を働きはじめるのである。そのときはじめて彼らは永遠なる浄福のための護りを固めるからである。』
 しかしそれは、何か仙人のような生活では決してない。私たちはこの日常生活の中にあってこのエックハルトの言う「徳」の実践に向かって生きるのである。『私たちが時間の内に置かれたのは、時間の内における知性的な活動を通じて、神に近づき、神に似たものとなるためだからである。』
 エックハルトにおいては、神はこの世界のすぐそばにおられる存在であり、しかも決して俗ではなく、すべてを超越している存在なのである。
 この神秘的でありながら、すぐ近くにおられる神に近づく方法を、エックハルトは三つ挙げている。『第一の道とは、多種多様な生業を通じて、燃え盛る愛をもって、全被造物の中で神を捜すことをいう。』『第二の道は、道なき道であり、自由であり、かつ束縛されている。この道にあっては、人は自分と一切の事物との上に高く遠く、意志も断ち切り、像によることもなく登りゆく。しかしいまだ本質的な永続性は手に入れていない。』『第三の道はなるほど「道」と呼ばれはするけれども、それは同時に「家郷」に在ることであって、神自身の有において直接に(手立てなしに)神を見ることである。』
 この道をきわめた者の感動を彼は次のように表現している。
 『この奇跡を良く聞きなさい。何と驚くべきことであろう。外に立つと同時に内に立ち、つかむと同時につかまれ、見ると同時に見られたもの自身であり、保持すると同時に保持されるとは。こここそが究極の場であり、そこで精神はあこがれの永遠とひとつになり、安らぎにつつまれてとどまるのである。』
 この境地に達した人は、いったいどのような有り様をしているのであろうか。いや、エックハルトによれば、それはふつうの人間と区別がつかない。ちょうどキリストがこの地上でそうであったように。その人は苦難に遭い、悩み、そして苦しむ。しかし彼はその苦難の中で神への従順を学び、より完全な者とされて行くのである。そしてその人の成長してゆく人生そのものが、また神の栄光を表すものとなるのである。

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2005/03/03

永遠の礼拝

研究:像を介さぬ認識について

 これは永遠の世界に関することである。精神において新たにされるとは、「常に新たである」ということであり、それはエックハルトによると「永遠である」ということである。
 それはまた「像を介した認識」から精神の6つの領域において解放されることでもある。
 この「精神の6つの領域」とは、エックハルトによると「悟性」「憤り」「欲望」「保持能力」「理性」「意志」であり、これらにそれぞれ「照明」「平安」「満ち足り」「保有」「認識」「愛」の6つの金の指輪がはめられる必要があるという。
 このようにして、精神が利己的な性質を脱却し、神的な性質を身にまとうようになることが求められている。『あなたは、あなたの「自己」からすっかり離れ、神の「自己」に溶け入り、あなたの「自己」が神の「自己」の内で完全にひとつの「自己」となるようにしなければならない。そうすれば、あなたは、神の生起せざる有のあり方と、神の名付けざる無のあり方とを、神と共に永遠に認識するのである。』
 かく私たちが神を認識するのは「永遠」の内においてなのである。そこにはもはや時間は存在しない。すべてが永遠に続くのである。「永遠」とはどういうものだろうか。それは、常に動かないということではない。動きながらそれが永遠に止まらないのである。これは、この有限な世界においては不可能なことである。この世界においては、動くものはやがてどこかにぶつかったり、すり減ったりする。しかし永遠の世界では決してそのようなことはない。それゆえ、私たちの存在も永遠の世界では常に新たなものになる。
 エックハルトによると私たちの魂は半分永遠の世界に入っているので、私たちは、神から流れ出ながら、しかも神の内に留まり続けているのである。しかも彼によるとすべての被造物がそのように流れ出ながらもその持っている性質の永遠的な側面において神の内に留まり続けているのである。
 しかしすべての被造物の中で、神を礼拝することを許されているのは、天使と人間のみである。天使についてはあまり語られていないが、人間は永遠の中で神を礼拝することになる。それはどのようなことであろうか。
 それはまず「永遠の礼拝」である。永遠に止まることのない礼拝。永遠に飽きることのない、永遠に感動的で、魂がその内に永遠に留まることを切に欲するような礼拝である。
 次にそれは「神のみに栄光が帰される礼拝」である。神の大いなる栄光の前に、いかなる存在も身をかがめ、平伏し、神の前に無一物となることを永遠に欲するような礼拝である。
 第三にそれは、唯一の礼拝である。この礼拝以外に何かが他にあるのではない。ただこの礼拝だけがすべてのすべてなのである。これ以外には永遠に何も存在しない。私たちが消え去ることがない限りは。しかし、永遠の前に神は私たちを存続させて下さるのだ。いつまでも、そして永遠に。神を愛するために。
 『そして、この一なるもののうちで、わたしたちは有から無へと永遠に沈みゆかなければならないのである。そうなるように、神がわたしたちを助けて下さるように。アーメン』

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最後の祝福

研究:三つの闇について

 『それゆえ神の教えを受け入れようとする人は、この山の上にまで登らなければならない。ここで神は光あふれる永遠の日に、その教えを完結させたいと思っている。』
 エックハルトが語ることは、伝統的な福音信仰の延長線上にあると考えなければ、決して理解できないように思われる。ここで求められている「山の上にまで登る」ことは、成熟したクリスチャンにのみ求められていることなのである。
 しかしもし成熟したクリスチャンがただ福音ばかりありがたがって聞いていたら、その人の内に成長はないだろう。彼に求められるのは、主イエスへの日々新しい献身の思いである。これが実現するためには、この世界のものから離れることにより、霊的な感動が常にもたらされ続けなければならない。そのためにエックハルトは「高い山の上に登らなければならない」と語るのである。
 このときの絶えざる霊的感動を彼は次のように表現している。『ある師は、神が約束を与えようとするとき用いる最も高きものは光であるという。またある師は、求める価値のある一切のもののもつ味わいは、光によって魂の内へともたらされなければならないと語る。』
 思うに現代の福音主義教会は、福音をどのように捉えているのだろうか。毎週のように礼拝で福音が語られ、形式的な感謝の祈りが捧げられ、それらのことに信徒たちは、ちょっぴりうんざりしているのではないだろうか。「福音の先」それは使徒行伝の世界であるが、そこにこそ大いなる感動と絶えざる成長があるのではないだろうか。
 そしてそれらの霊的な成長の果ては、エックハルトによると光輝く天の御国ではない、それは「闇」なのである。彼が求めるのはただ主イエスお一人である。その他には何も必要ではないのだ。ああ何ということだろう。神がクリスチャンに与えることを約束しているものさえ求めないとは。なぜかそのような方向性に、決して自虐的なものではなく、魅力すら感じるのだが。

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2005/03/01

認識の構造

研究:無である神について

 聖パウロは神を一つの「無」として見たのだとエックハルトは言う。しかし彼は「神は無だ」と言っているのではない。『神のもっとも本質的な特徴は「有」である。』と彼は言っている。
 私たちが神を見るときに、私たちに神が「無」として見えるだけなのである。ここにエックハルトの思想の秘密があると思う。つまり私たちが神を見るとき、実は自分自身を見ているのである。彼は他の説教の中でこう言っている『わたしが神を見ている目は、神がわたしを見ている、その同じ目である。わたしの目と神の目、それはひとつの目であり、ひとつのまなざしであり、ひとつの認識であり、そしてひとつの愛である。』
 つまり私たちは、何かを見るとき、自分の目で見るのであるが、この自分の目の方が見られる対象よりも、認識に対して大きな影響を与えているのである。「先入観」は、私という存在がある限り決して排除できない問題なのだ。そこで私たちが神を正しく見るためには、まず私たちが消えてなくなる必要がある。しかし完全に消滅してしまったら「見る」という行為自体にも意味がなくなってしまうだろう。そこでそのぎりぎりの線、私たちの自己認識が消え去る寸前の状態が「神が無となる」状態なのである。
 パウロは、天からの強い光により、一時的に視力を失い、ユダヤ教の背景を持つ自分のそれまでの信仰の確信をもすべて失うことにより、彼の存在は消失寸前になっていた。彼の頭の中には天から彼に向かって発せられた「サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか。」という主イエスの言葉が何度もこだましていたことだろう。まさにこの声だけがそのとき彼をこの世界につなぎとめていたのであった。
 『光に包まれて彼は地に投げ出され、彼の目は見開かれた。その結果彼は見開かれた目ですべての事物を無として見たのである。そしてパウロが一切の事物を無として見たとき、そのとき彼は神を見たのである。』『「パウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。」一であるものをわたしたちは見ることはできない。彼は無を見た。それが神だったのである。』
 私たちが神を見ようと望むとき、エックハルトは私たちにもパウロのように無心になることを薦める。しかし福音信仰はどんなアドバイスをしてくれるだろうか。私が良く聞くのは、「祈れ」「主イエスの十字架を仰げ」「賛美せよ」「感謝せよ」という言葉である。
 これらの内のどの方法でも良いのだろう。私たちがその中に埋没し、自分を文字通りに失うことができるなら、そこに私たちはエックハルトの言うように神を無として認識することができるだろう。

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2005/02/28

反逆からの開放

研究:三つの内なる貧しさについて

 「心の貧しい人たちは、幸いである。天国はその人たちのものである。」
 この「心の貧しい」という状態をエックハルトは、内なる貧しさと捉えて三つの側面から展開する。すなわち「何も意志しない」「何も知らない」「何も持たない」の三つであり、この順に次第に高貴なものとして取り扱うのである。我々凡人の考えでは、「何も意志しない」ことこそもっとも高貴なもののように思えるかもしれない。しかしエックハルトにおいては、「何も持たない」というもっとも現実的と見える行為に最も高い地位が与えられている。これ一つ取ってみても、彼の思想が雲の上の理論ではなく、この世界を実践的に生きるためのものであることが分かる。
 まず「何も意志しない」ということについてであるが、彼にあっては文字通り、たとえ神のためにでも、いっさいの良いことまでも含めて、何も意志しないと言うことである。
 また「何も知らない」ということについても、文字通り何も知らないのであって、究極的には「何も知らずに生きている」ということさえ知らないというように生きることである。
 さらに「何も持たない」ということについては文字通り、自分の内に神が働ける場所さえも持っていないということである。
 これらのことによりエックハルトは何を追求しているのだろうか。それは、一言で言うと、「被造物から離れるということは神から離れることをも意味する」ということだろう。
 つまり「神を意識し、その意志に従って生きる」ということは、実はその従う人自身の業であり、そうである限り神の業ではあり得ない。それは律法の呪いの元にある行為であり、それゆえ神に義とされ得ないものである。だからエックハルトはそれらから解放されることを薦めるのである。これらのことを通して「欲望」「無知」「虚無」等々から解放されることにより、自由に神に仕えることが可能になるというのである。
 エックハルトはこの解放のことを「突破」または「離脱」と呼んでいる。『私が神から流れ出たとき、そこですべての事物は語ったのである「神がある」と。しかしこのことはわたしを浄福にすることはできない。ここではわたしはわたしを被造物として認識するからである。』ちょうどパウロが認識したように、神を意識することは律法を意識することである。だからエックハルトは言う。『だからこそわたしは神に、神がわたしを「神」から自由にしてくれるよう願うのである。なぜならば、わたしたちが神を被造物の起源としてつかむかぎり、わたしの本質的有は神を越えているからである。』
 人が自分の倫理基準を持ちながら、それにより自分の行動が神の意志かどうかを判断しながら神に従うとき、そこには大いなる危険が残ったままとなる。それは「反逆の可能性」である。これは被造物の創造と共に発生し、創造されたものが消滅するまで決して解消されることはない。
 エックハルトが提起するのは、被造物が存在を継続しながらこの「反逆の可能性」を抹消する方法論である。そのようなことは人間の業としては不可能である。しかし彼が提示するのは、それが純粋に神から由来することである。
 ところで福音信仰はこれをどのように説明するだろうか。それはイエス・キリストの十字架による購いによる。主が言われたように、文字通り「自分を捨てて、日々十字架を負い、そして主イエスに従う」ことによりこれが可能となる。しかし十字架の購いを信じることと自分を捨てることは、一度に起こることではあっても、一つのことではなく、二つのことである。そこで後になってからこれらの間に分離が起こる可能性がある。これら二つが分離してしまったクリスチャンは、信仰から離れないまでも、彼の内に反逆の可能性を抱え込むことになる。
 それはちょうどエデンの園のアダムのような状態である。彼は善悪を自分で判断しなければならない状態となり、反逆は時間の問題となってしまった。可能性はそれ自体がどのように小さいものであったとしても、無限の時の前にはすでに反逆として機能し始めているのである。つまり、時間性の中の可能性は事実と同じなのである。
 この時間性の呪いから解放される方法はエックハルトによれば二つである。すなわち「死すること」及び「時間から解放されること」である。そして「時間から解放されること」を可能にする方法がこの説教で取り扱われている「心の貧しさ」というアプローチなのである。

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2005/02/24

原動力としての不動性

研究:魂の内にある火花について

 この説教の中でエックハルトは、聞く者に彼の全関心の根拠を理解させるために、一つの比喩を提示している。それは、彼の目とその見ている説教台の木材に関するものである。
 彼がこの比喩で提示しているのは、神と人の魂の間の類似性である。その類似性を彼は、人が考え出したものとしてではなく、神が創造した類似性として驚きを持って主張するのである。
 彼の神学のすべては、この神と人との類似性に懸かっている。彼はこの類似性を類似性以上のもの、殆ど同等性のように把握しているかのようである。しかも、この同等性が神に由来するものであることを強く信じかつ自分の魂を賭けて希求するのである。そして、この一点を確保した後は、彼は他の真理におけるすべての所有権を大胆にも主張するのである。
 そして彼がこの野望を成し遂げるための唯一の方法論は、『人が自分自身および被造物一切から離れ去る』ということである。
 しかしこの「離れ去る」とか「捨て去る」とかいう行為は、一見何かこう非常に受動的な作用であり、その効果について私たちは一抹の不安を禁じ得ないようにも思える。つまり捨て去ることが何ももたらさないばかりか、その結果今持っていると思うものまで失ってしまうのではないかという不安である。しかしエックハルトは、この「捨て去る」という行為にこそ大きな力が秘められていると主張する。
 それは、彼の神学全体を貫いているこの宇宙の基本的な構造に由来しているようである。『といのもこの根底は、みずからの内で不動な、ひとつの単純なる静けさだからである。しかし、この不動性によってすべての事物は動かされ、それ自身において知性的に生きるあらゆる命が受け取られるのである。』
 それにしても、この「すべての事物を動かす源としての不動性」とは、いったい何なのであろうか。もちろんその主体が神であることは理解できる。しかしエックハルトがここであえて「不動性」と言っている意味を理解する必要があるだろう。不動であり、同時に限りなく力強いある種の作用がそこに想定されていると考えるべきであろう。
 それではいったいどんな作用がそこに想定されているのだろうか。それは、この宇宙の目に見える事物の基となる目に見えない事物に関係するものということができるかもしれない。それらは「生むこと」、「相続すること」、「愛」、「認識」等々であろう。これらはいずれもエックハルトにより、その神学体系の中で特別な意味を与えられている。例えば「認識」一つとってみても、それは「同化」の重要な一過程であり、また同時に福音信仰の土台と位置づけられるものでもある。これらはまた共に「永遠」という性質を持つ作用でもある。その意味では「認識」も、ある時点の知識なのではなく、予知をも含んでいる。また「生む」という概念も同様に永遠に続く行為なのである。
 この「永遠性」を背景にした、予知をも含む「認識」と「産出」の二つを想定しただけでも、それがこの宇宙を動かし得る力を持っていることを想像できるようである。
 さらに神と御子及び魂の間に生起する永遠なる計画を背景とした「相続」という作用は、全宇宙の運命を私たちの手の内にもたらしてくる。そしてその原動力は、魂を創造された神の永遠の愛なのである。

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2005/02/22

極めて福音的な出来事

研究:神が魂の内に子を生むということについて

 「神が魂の内に子を生む」という表現でたぶんエックハルトは、あの極めて福音的な出来事のことを語っているのだと思う。
 それは、人が主イエスを信じて心に受け入れることを意味するのだろう。そしてそのことは次に、その人の知性を時間から解放し、その人をして神に完全に従うことを可能とする。そしてさらにそれを通して、その人に真の自由がもたらされる。主イエスが言うように、真理が私たちを自由にするのである。
 エックハルトによれば、人が神に心から従えないのは、その心に多くの策略があるからである。「策略」は、時間と大いに関係している。時間がなければ策略もあり得ない。策略はある意味で実施予定事項を時間順に並べたものと言えるだろう。しかし天には時間も策略もない。
 エックハルトは、このような時間から解放された知性を先取りしてこう言っている。『天使の本性は時間にけっして触れることがない。魂の内では夫である知性もまた同様なのである。つまり知性はいかなる時間にも触れることがない。』
 それでは、そのように本来浄福なものである知性がなぜ現実には時間の中で罪に沈んでいるという状態になり得るのか。それもこの説教の主題のひとつなのである。
 主イエスが「若者よ、起きなさい。」と呼びかけたその「若者」こそが「知性」だというのだ。エックハルトは語る。『彼女が知性の内で生きなかったからこそ、夫は死に、彼女は寡婦となったのである。というのも人が知性の内で生きるときにだけ、聖霊は贈られるからである。』
 それでは、魂がその死んだ状態から回復する方法はあるのか。エックハルトは次のように主張する。『神はすべての力を、生むことの内で費やすのであるが、そのことは、魂が再び神へと戻り来たることを目ざしているのである。』つまり、神は魂が元の状態に回復されるために全力をつくして御子を魂の内に生んで下さっている。神にとって「御子を賜う」ということは、過去に行われた、ただ一回きりのできごとではなく、現在進行形かつ永遠のできごとなのである。そして御子を心に受け入れるものは、御子と共に全被造物をも相続することになる。そのとき聖霊が重要な役割をされるのかもしれない。
 しかしここで不可解なのは、この説教のなかでは、伝道とか律法とか、人間がこの世界で努力すべきことがらについて一切言及されていないことである。それで例えば、「十戒」についてはどうなのだろう。エックハルトは十戒を、今日も常に心に刻んで守るべきものと考えるのだろうか。答えは「否」のようである。
 『ところで主は、「若者よ、起きなさい」と語る。「起きなさい」とはどんな意味なのだろう。それはわざから起き上がって、魂の上へ、自分自身の内へと「あなたを置きなさい」という意味である。』
 つまり、紙に書き記された戒めを暗記してそれを守ろうとするのでは空しいのであり、神と心を一つにすることにより、神の御心に叶うことだけを実行できるようになるこである。彼はそのことを熱く語る。『恩寵とはむしろ神の内に魂が住みこむこと、共に住いすることなのである。このことにくらべれば、いままでにわざとよばれたもの、外的、内的な一切のものは、あまりにも価値が低すぎるといわなくてはならない。』
 それではそのような神と同化した究極の状態とはどのような状態なのだろうか。エックハルトは、さらに熱く語る。『多くの師たちは浄福を知性の内で求める。しかしわたしは、浄福は知性の内にも、意志の内にもなく、それら二つを越えていると断言する。浄福が知性としてではなく、浄福としてあるところ、神が神としてあるところ、魂が神の像であるようなところ、そこにつまりは浄福があるのである。魂が神を、あるがままにつかむところ、そこに浄福はある。そこでは魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である。』
 神と一つになるとは、エックハルトによれば、魂の知性において、魂も、浄福も、神も含むすべてのものが整然と区別されながら、神が生みまた創造されたそれらの間の、本来的な親密な関係を大いなる平安の内に認識するような状況なのであろう。
 『主に祈ろう。わたしたちが、そのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けて下さるように。アーメン』

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