2008/04/05

神と神性

説教56:神と神性とについて

 神は、人をご自身の似姿に創造された。そして、神が霊であることから、私たちは、霊として、すなわち性質と働きの両面において、神の似姿に創造されたのである。エックハルトは、それを神の業という。魂は、神の業であり、神は魂の中で神の業、つまり天地創造の業を行われる。また、御子を生むという業を行われる。そして魂自体も神の業であり、その意味で神そのもの、つまり神の子なのである。私たちが神を認識するのは、この働く神、すなわち神の業なのであり、そのような意味で、神は被造物の中に臨在される。神は、信じる者の心の内に住まいされる。それは、彼が神の似姿に創造されたからであり、彼は、その似姿を持って神の業を行い、神の栄光を表すことができるのである。つまり、私たちが「神」と言うとき、そのとき神は、私たちの心の中に住まわれる、すなわちそのとき神は神となるのである。それは、エックハルトの譬えによると、洗面器に水を張り、その中に鏡を沈めたときになぞらえられる。それは、明るい太陽の光を反射し、しかもそれは、真の太陽の光であるが、水中に太陽があるのではなく、鏡は鏡のままなのである。ちょうどそれと同じように、神の業、すなわち私たちが認識する神は私たちの心の内にあり、そこから現される業も神の真正なる業であるが、私たちが神なのではない。このような関係、すなわち私と神と被造物の関係がこの世界の構造なのであり、この関係においては、すべての被造物は、私だけのものであり、ただ私だけのために創造されたのである。そして、それら被造物が神の元に再び帰りゆくのを用意するのは、私だけなのであり、まさにその意味で、私は神の一人子なのである。そして、そこに働く神の業は、愛そのものであり、そのような意味で、神は愛なのである。
 しかし、このような私たちに認識できる神すなわち神の業とは、まったく別の神ご自身が存在される。エックハルトはそれを「神性」と呼ぶ。この神性は、私たちの認識する神、すなわちいわゆる神から遠く隔たっており、神性は神のように働くということをしない。それは、天地創造のときにも、決して働くことがなかったし、これからも永遠に働かれることはない。エックハルトは、それを「神の離脱」と呼んでいる。この神の離脱は、何ものにも動かされることはなく、信仰者の熱心な祈りにも決して動かされることはない。しかし、万物はこの不動性により動かされ、それ自身において知性的に生きるあらゆる命が受け取られるのである。そのように、神の離脱は、自ら動かされることはないが、すべてのものを生かし、動かす、永遠の愛であり、生命力なのである。エックハルトは言う、「すべての被造物は、その最高の完全性を求めて運動している」と。この不動にして、すべてのものの源なる神性こそが、全被造物の目的なのであり、私たちがキリストを見るとき、この神性から発出する光を見ているのである。
 エックハルトの研究は、これでひとまず終わりにしたいと思うが、今にしても、まだ彼の言うことは、理解できないことが多い。最後にそんな彼の言葉を記しておこう。
 「わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流と源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである。このように帰り来たったとき、神は消えるのである。」(マイスター・エックハルト)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/04

永遠の意志

説教86:観想的生と活動的生とについて

 ルカの福音書第10章には、マリアとマルタの物語が載っている。主イエスが彼女らの家に来られたとき、二人は、それぞれの仕方で主イエスに接した。マリアは、主の足元に座って御言葉に聞き入っていたが、一方マルタは、忙しく立ち働いていた。私たちも、日常において、マリアのように静思と祈りのときにあったり、またマルタのように忙しく働かなければならないことがある。そのような日常の中で、どのようにしたら、いつも変わらぬ思いで神に仕えることができるだろうか。エックハルトによれば、マルタのように忙しく働きながら、心の内はマリアのように主の御側にいることが可能であり、それにはまず、自分の意志を神の前で断念する必要がある。なぜなら、自分の意志は、ときとして神の意志を行う妨げとなり得るからである。その練達について、エックハルトは、三つの意志と言う概念を持ち出す。第一は、「感性的意志」であり、これは真なる教師に聞き従うという指導を必要とする。第二は、「知性的意志」である。これは、人がその言葉、振る舞い、生業を最も高きものに秩序づけて同じようにしていくことである。これらは、たゆまぬ追求であり、努力と忍耐を必要とする。しかし、これらすべてが満たされると、神は魂の根底にさらにもう一つの意志を置く。それは、聖霊の愛による掟をともなう「永遠なる意志」であり、この意志には、もはや「なぜ」とか「どのように」というような理由は存在しない。これが与えられるとき、魂は「主よ、あなたの永遠なる意志のなるごとく、わたしにもなさせたまえ」と語り、大いなる安息に到達するのである。
 エックハルトによれば、マルタは正にこの境地に到達していた。そしてそれは、神に完全に付き従うすべての人に言えることである。人となったそのはじめから、キリストは私たちの永遠なる救いのために働きはじめ、十字架上の死に至るまでずっと働きつづけたのであり、彼の身体のどの部分も、際立った徳を働かなかったところはなかったのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/02

永遠の愛

説教83:像を介さぬ認識について

 使徒パウロは、「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け・・」(エペソ4:23)と言う。私たちが真に神を礼拝し、仕えるには、心の底から新たにされることが必要なのである。
 エックハルトによれば、私たちが新たにされる方向性は、実に自分の生来の固定概念や戦略から自由となり、自ら無となる方向なのである。しかし、なぜ「無」なのだろうか。それは一つには、神が「無」なるお方だからである。その意味は、神は存在しないということではなく、神はこの世的な感覚では決して捉えることのできないお方、それらを遙かに超えたお方だということである。
 この「無」へと向かう方向性をエックハルトは「離脱」と呼ぶ。それは、耐えざる自己否定の実践であり、パウロが言う「日々、自分に死ぬ」ということ、また、キリストの「十字架を負いて我に従え」との命令への従順でもある。その行方には、いったい何があるのか。それは、単なる自己破壊なのか、それとも自己への根元的な回帰なのか。前者は性悪説、後者は性善説に帰結する。しかしもっと深い意味では、それは、永遠の礼拝、私たちの天上の住まい、天における栄光に関係するのである。
 私たちの自己が純粋になればなるほど、私たちは、ますます良く神を知り、愛し、礼拝できるようになる。私たちの心に、主イエスの主権が啓示され、王の王、主の主であるお方の麗しさに包まれるて礼拝するとき、その永遠の時間の内に、私という存在は、もはや必要ないように感じられる。
 この自己喪失の旅は、いつまで続くのか。私という一つの有が、永遠の前に砕けて散り、無に帰するのはいつなのか。エックハルトは言う、「この一なるものの内で、私たちは、有から無へと、永遠に沈み行かなければならないのである」と。「永遠?」、そうそれは永遠に続くのである。私たちの自己が神の前に喪失するためには、実に永遠の時が必要なのである。それは、神が私たちを永遠の愛で愛するからであり、私たちは神の前に、永遠の存在、すなわち神の一人子として創造されたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/01

高い山

説教72:三つの闇について

 「イエスは、この群衆を見て、山に登り、そこで口を開き、神の国について教えられた」マタイ5:1
 神は私たちを高い山に連れて行かれ、御子を通して教えを与えられる。それは、今まで誰も聞いたことのない、気高く貴い教えである。しかし、もし私たちがその神からの教えを聞こうとするなら、私たちはまず、私たちの周りの群衆を後にし、その前から立ち去らなければならない。
 主は、私たちを高い山へ導かれる。驚くべきことに、そこへ到達できるのは、私たちだけなのである。神の似姿に創造された私たちの魂だけが、その高い山の頂に立つことができる。私たちは、そこで神の教えの完成を聞くのである。しかしそのとき、そこに濃い雲が立ちこめ、主の御姿さえも見えなくなる。そのとき私たちは、神から直接に教えを受け取るのである。どのようにしてだろうか。御子のようにしてである。御子の御姿が隠されたのは、私たちが自分の内に御子を認識し、御子の内に自分を見出すためだったのである。しかし、ベテロたちが我に帰ると、そこには主イエス一人だけがおられたのであった。そして彼らは山を降りていった。
 私たちが山を降り、日常の生活に戻るとき、そこには主イエスだけがおられるのである。主イエスは、神であり同時に人である。そして、主イエスとともに山を降りてきた私たちは、すでに理解している。私たちも神の子であることを。そして、この地上で主イエスのように神と交わり、神に従い、神の栄光を現すのだということを。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/31

天の光

説教71:無である神について

 「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。」使徒行伝9:8
 サウロの肉体の目を盲目にしたのは、目映い天空からの光であったが、サウロの心を照らしたのは、輝くことのない天からの光であったとエックハルトは言う。そのように天は輝くことがなく、天からの光も輝きを放つことはないと。「天の光とは、神である光のことであるが、その光は人間のどんな感覚でもとらえることができない光なのである」とエックハルトは言うのである。
 このような描写と私たちの思い描く天のイメージは、なんとかけ離れていることだろうか。しかし彼は言う、「それゆえ、魂は神を見出さないのである」と。主イエスも言われた、「わたしが地上のことを話してもあなたが信じないのなら、もし天上のことを話したらどうして信じられるだろう」と。それほど、天と地は異なっているのであるが、しかしその差異は、この地上と天上の差異ではなく、あくまで私たちの心と天上の世界の差異なのである。
 それでは、どうしたら私たちに、天上のことが理解できるのだろうか。それには、あのときのパウロのように盲目になることが必要である。パウロの目がこの世界に対して盲目となったとき、そのとき彼は神を見出したのであった。もっともパウロはその後、盲目から癒されたのだが、彼の感覚はその後も、この世界に対して盲目であり続けたのであった。それゆえ彼は、「私は、すべてのものを糞土のように思っている」と言ったのである。
 エックハルトの言う「盲目になる」とは、すなわちこの世の感覚を捨てるということである。そしてそれは、この世のことよりもむしろ、天上のことを思うときに成すべきことなのである。つまり、この世の延長で天上のことを考えるべきではないということである。私たちがそこに入るには、あらゆるこの世的なものを捨て去らなければならない。この世における栄光を捨てなければならないのである。光輝く栄光さえも。キリストの生涯がそのことを啓示している。彼は悲しみの人で、病を知っていた。そして、甦った彼の姿にも輝きはなかったのである。
 エックハルトは言う、「神へはいかなる入り口もないのである」と。入り口が無い以上、そこへ入ることは不可能である。そればかりか、そこから放射して来る光さえ、厳密にはこの世のものであり、私たちを惑わすものでさえあり得る。そこで彼は、まったく新しい方法論を提示する。「これはたいへんにむずかしい問題であるが、つまり、まず捜し求めていく知性の内へと突入し、飛躍し、そしてこの探し求めていく知性がこんどは、もはや探し求めることのない知性の内へと、つまり、自分自身の内で純粋なひとつの光である知性の内へと飛躍しない限りは、天使といえどもこの思惟に関して何も知ることはない」と。
 この従来の知性の上に座すところの新しい知性を働かせるために、いま私たちは、「自分を捨て、日々十字架を負いて我に従え」との主イエスのご命令に、全力で邁進する必要があるのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/28

神とは?

説教52:三つの内なる貧しさについて

 「神とはいったい何か」、これは、人類にとっての永遠の疑問と言えるだろう。しかし、このような本質的な疑問における難点は、それを考えているのが、あらゆる意味で不完全な自分であるという点である。つまり、「神とは何か」という問いは、「神とは、一般的に何なのか」という問いではあり得ず、実際はせいぜい「神とは、私にとって何なのか」という問いでしかないということである。
 そこで、この問いのできるだけ一般的な答えを得ようとするならば、自分の考え、すなわち自分を捨てる努力をする必要がある。そして、それはエックハルトによれば皮肉にも、何も考えないことなのである。しかし、人の罪深さの本質は、知識よりもむしろ意志の方にある。そこで、エックハルトは、何かを意志することさえも否定する。何も意志しない人こそが聖書に言う「心の貧しい人」だというのである。そればかりか、彼はさらに先に進んで、人が精神的なものをも含めて、何も所有しないことを勧めるのである。
 しかし、そのようにして、でき得る限り偏見を除去し、考えることさえやめて(それでどのように探求できるのかは別として)探求した結果、その人が、ついに一つの神概念を手に入れたとしよう。ああしかし、それも所詮、彼だけに通用する神でしかあり得ない。というのは、それを考え、それに同意したのが彼自身だからであり、もっと本質的には、彼は自分と彼が発見した神以外に、何か別のものが存在するということさえ証明できないからである。
 しかし、ここに驚くべき帰結が存在する。すなわち、神とは、そのように探求すべき対象ではないということである。そして、今まで私が神と呼び、探求と信仰の対象としていたものは、実は「神」というよりも、むしろ私の「神概念」であったということである。そして、さらに戦慄すべきことは、そのような薄っぺらなものでない真の神が存在されるのであり、私の知性は、いまそれに向けて飛び立とうとしているということである。
 エックハルトは言う、「しかし知性はさらに先を求めるならば、知性は思惟をさらに越えて進んでいく。知性は周囲をめぐり、そして探す。知性はあちらこちらと偵察しつかんだり、失ったりする。捜し求めるこの知性の上には、さらにひとつの別な知性がある。この知性はそこではもう捜し求めることもなく、かの光の内に包み込まれた、その純粋で単一な光の内に立つのである。つまり、この光の内で魂の一切の力が高まったのである。諸々の感覚は思惟の内へと飛翔するのである。これらがいかに高く、いかに測り知れないものであるかは、神と魂のほか、何ものも知ることはない」と。
 しかし、私は思う。人が主イエス・キリストを神と信じるということこそがまさにここで求められていることなのだと。というのは、キリストを神と信じることは、つまり神のことを何も考えないことになるし、自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従うことは、自ら何も意思しないことになる。また、キリストのためにすべてを捨てることは、何も持たないことになり、キリストはそのような私に、百倍の祝福を与えると約束して下さっているのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/27

作用のメカニズム

説教48:魂の内にある火花について

 エックハルトは、この説教の中で、自ら不動なるもの同士が、どのようにして互いに作用し合うことができるかについて解き明かしている。この一見不可能に思えるようなことが実は可能であり、「この不動性によってすべての事物は動かされ、それ自身において知性的に生きるあらゆる命が受け取られる」と彼は言う。
 神と人の間には、絶対の相違があり、深い断絶がある。しかし、その断絶を越えて、神から人へと啓示が与えられ、恵みが降る。エックハルトが言及するのは、その神秘的な作用のメカニズムについてである。その根底には、「唯一の動かされない真理があり、すべてのものはそこから出で来たり、またそこへと帰り行く」という思想がある。しかしこれは、聖書の提示する真理でもある。アダムにおける失楽園、アブラハムの召命、エジプトでの隷属とモーセによる脱出、荒野の旅と約束の地への到達、キリストの降誕と受難、復活と召天、これらのすべてが、上記のことを指し示している。つまり、まずすべての創造者にして統治者なる父がおられ、我々はこの一人の父から出て来て、いまこの世界にいるのだが、やがて再び星輝く天の父の元に帰って行くのである。この流出と回帰からなる往復運動の目的は、この世界の論理では解き明かすことができない。それは、この世界では意味の分からない往復運動ではあるが、永遠の世界においては、神の偉大なる一つの御業なのである。それは、神の一人子を生むというただ一つの御業であり、それはまたこの世界においては、すべての被造物の内に働く天地創造と万物流転の力ともなる。その目的は、私たち一人一人が神の一人子とされ、万物を父から相続することにより達成される。
 この世界は、結果だけに着目する。時間を経て残るのは結果だけだからである。しかしもっと永い目で見れば、その結果もまた空しく、塵のようなものであることが分かる。しかし、永遠の世界においては、結果というものは存在せず、すべてが現在である。つまり、いまあなたが持っている力があなたのすべてである。そこでは、失われるものは何もないからである。そして、私たちがその永遠の世界(それは、私たちがまだ生きているときにすでに私たちにとって現実化し得るものであるが)において、万物を相続するとき、私たちは、質においても、能力においても、キリストに似たもの、すなわち神の一人子とされるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

神の似像

説教43:神が魂の内に子を生むということについて

 ルカの福音書第7章には、一人息子に死なれた寡婦についての話が載っている。そのとき主イエスは、死んだ若者に近づき語り掛けられた「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と。すると若者は起き上がった。この「寡婦」とは魂のことであり、「若者」とは、魂の一つの構成要素としての知性のことである。
 神は人を創造し、これに神と交わり、共に生きるために知性を与えられた。しかし、人はかつてその知性で神を偽り、罪を犯して神から離れてしまった。その結果、人の知性は堕落し、霊的な不妊状態に陥ってしまった。その上、知性はその代わりに、たくさんの悪いことを考え出して、ますます神から離れて行く傾向を身に着けてしまったのである。
 しかし主イエスは、この霊的に不妊状態に陥っている寡婦のような魂に、「若者よ、あなたに言う、起きなさい」と語り掛けられる。そしてもし知性が、自分に語り掛けられたこの主の言葉に耳を傾けるならば、魂は再びその絶望の淵から起き上がることができるとエックハルトは言うのである。
 知性はまず、自分に語り掛けられた言葉の中に、自らの呼び名を聞く。「若者よ」と主は語り掛けられる。そのように知性は、その本質においては、余すところなく若く、子を宿す力を備えている。子とは、もちろん神の一人子のことである。御子を心に宿すことにより、知性は再び、命あるものとなり、霊的なあらゆる実りを回復させられるのであり、これが知性の成す本質的な業なのである。
 また知性は続けて「起きなさい」との主の命令を聞く。それは、この世の業にのみ埋もれていた以前の状態から身を起こして、自分の内にある先の本質的な業のために起き上がりなさい、と言う意味である。それは、何かを成すとか、作り出すとかいう業ではなく、父なる神が太古から現在に至るまで働き続けている偉大なる業である。このただ一つの業に比べたら、その他のすべての業は、まったく価値が無いと言える。すべての被造物は、このただ一つの業の完成に向けて行為しているのである。この完成とは何だろうか。それは、魂が再び命あるものとなり、彼がすべての被造物を御子を通して相続することである。そのとき魂は、御子と同じように、父なる神の真正なる子とされるのである。
 エックハルトによれば、父が子を生むとき、父がその有と本性において持っているものすべてを子に与えるのであり、この授けの中で聖霊が流れ出るのである。しかし、これは実に戦慄すべきことなのだが、私たちの心に御子が生まれるということは、そこが私たちの心であるゆえに、そのことは実は、私たちが御子を生むということになるのである。どのようにしてそれが可能なのだろうか。エックハルトは言う、「魂が神の像であるような場で魂が生きるときに、魂は生むのである」と。そして私たちは、まさにこの「神の似像」に神により創造されたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/15

留まることと出て行くこと

説教30:神の言について

 「御言葉を宣べ伝えなさい。どんな仕事にも励みなさい。」エックハルトは、このみ言葉から、この世界における信仰者の生き方について語る。それは、神の内に自分をしっかり保ち、そこに堅く留まると共に、また他方では積極的に出て行って、神の栄光を世に現す働きをすることである。
 御言葉は、信じる者の心にある。しかし、それがそこに留まる度合いが強ければ強いほど、それはまた宣べ伝えられることを欲する。すなわちそれは、信仰者をして外へ遣わす働きをすることになる。そこで、御言葉に忠実で、それに固執する信仰者ほど、また御霊により、社会の中へと積極的に遣わされて行くことになる。そして、それにより彼はまた、さらに強く御言葉に留まるようになる。
 神は万物の内に臨在される。しかし神はまた、もっとまばゆい御姿であなたの心の神殿に住まいされる。神は、万物を動かしておられる。しかし同時に、神は永遠の愛であなたを愛しておられる。それゆえ、私たちがこの神の愛に応えようとするなら、神の言葉にしっかりと留まると共に、いま自分のいる場所から思いきって外に出て行き、その場所で神の御心を行うことを追求することが必要なのである。
 この外へ出ていくことと、内に留まること、キリストも「私の愛の内に留まりなさい」と言われながら弟子たちを全世界に遣わされたが、それらは、永遠の世界では一つのことなのである。それゆえに、あなたがこの有限な世界の中で神を求めるときには、これらのことは、共に同時に起こるべきことなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/13

愛の一性

説教28:捨て去るということの意味について

 主イエスは言われた、「わたしの愛の内に留まりなさい」と。もし私たちが主イエスの愛の内に留まるならば、多くの良き実を結ぶことができる。しかし、どうしたら私たちは、そこに留まり続けることができるのだろうか。
 エックハルトは言う、「愛には、なぜ、といういかなる理由もない」と。つまり、私たちが主イエスの愛に留まるための理由は、何もないのである。というのは、もし私たちが、自分の利益のために主イエスの愛に留まろうとすれば、それは、純粋な動機からではなく、主イエスを自分のために利用しようとしていることにもなるからである。しかし、私たちがもしそのような外的な動機ではなく、純粋に自分の意志だけで主イエスに従って行こうとするなら、今度は自分の内の罪の根というか邪心がその妨げとなってくるかもしれない。そこで主イエスは言われたのである、「自分を捨て、自分の命を憎まなければ私に従って来ることはできない」と。
 エックハルトがこの説教で説いているのは、この「自分を捨て去る」ということの意味についてであり、それは、主イエスの愛の内に、真に留まるということの追求方法なのである。つまり彼によれば、「すべてを捨て去る」ということ以外に方法はない。しかも、それを何の為ということなく行い、一度捨て去ったものには、二度と目を向けることもなく、思い出すことさえ無いというように完全に捨て去らねばならないのである。そう、最初からそれらを持っていなかったかのように。
 そのとき、主イエスが語った言葉があなたに成就する。すなわち、「わたしはもはやあなたを弟子とは呼ばなず、友と呼ぶ」と。しかし、主イエスの友と呼ばれることは、この世の事柄ではない。その意味は、文字通り、あなたに主イエスと同じ権威が与えられるということである。すべてを捨て去ったあなたに残されたものは、神がご自身の形に創造されたあなたの魂であり、そこにあなたと神との間に「聖なる同等性」、すなわちエックハルトの言うところの「一性」が生じる。いや、この一性というものは、生じたのではなく、最初からあったもの、最初に造られたものなのであり、その意味で、それは「残される」というべきであろう。そして、この一性こそ、エックハルトによれば、父なる神と御子の間の一性と同じものにほかならないのである。もちろん、私たちは御子ではなく、私と父との一性も御子と父との一性とは区別され得る。しかしそれでも、それら二つは同じ一性であることに変わりないのである。しかし、この二つの一性が同じものであるということは、驚くべきことである。それは、私たちが、父のまことの一人子であることを意味しているからである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

おみやげの写真 そうじゃな~い! たわいのないものたち とりとめのない話 イザヤ書研究 エズラ記研究 エゼキエル書研究 エックハルト研究(参考文献:「エックハルト説教集」 田島照久編訳:岩波文庫) キリスト信仰の体験記 キリスト教の疑問 キルケゴール研究(参考文献:「死に至る病」:斉藤信治訳:岩波文庫) サムエル記上研究 サムエル記下研究 ドン・キホーテ前篇(一) ニーチェ研究(「ツアラトストラ(上)」より) ネヘミヤ記研究 ビジネスマンへの道 ブルトマン研究(著書:「イエス」より) ボンヘッファー研究(「共に生きる生活」より) マクグラス研究(歴史のイエスと信仰のキリスト:近・現代ドイツにおけるキリスト論の形成) マタイの福音書研究 マルコの福音書研究 ヨハネの福音書研究 ヨブ記研究 ルカの福音書研究 レビ記研究 ローマ人への手紙研究 主イエスのしもべ 人生の問い 伝道メッセージ 使徒行伝研究 六弦 出エジプト記研究 列王記上研究 列王記下研究 創世記研究 奇跡への入口 心の祭壇 情報宣教方法論 新改訳聖書に関する疑問 新約の時代 新約聖書研究 歴代誌上研究 歴代誌下研究 死人がよみがえる 民数記研究 現代と聖書 病人をいやす秘訣 私のたからもの 続・エックハルト研究(福音信仰からの光) 続・ニーチェ研究(「ツアラトストラ(下)」より 続・ブルトマン研究(ヨハネの福音書) 続・ボンヘッファー研究(「行為と存在」より) 続・マタイの福音書研究 続・新改訳聖書に関する疑問 続・続・エックハルト研究(批評) 続・続・続・エックハルト研究(信仰の刷新を求めて) 続・続・続・続・エックハルト研究(キリストのうちに自分を見いだす) 続・続・続・続・続・エックハルト研究(神の子とされる) 続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神に仕える) 続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神に知られる) 続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神秘主義の光) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神との合一) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(認識の光) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(変容) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(王) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(カリスマ信仰) 聖書に関する随想 聖書の実装 聖書の矛盾研究(「バカダークファンタジーとしての聖書入門」を読んで) 聖霊と共に生きる 聖霊の賜物を受ける 解析学研究 詩篇研究 道を走る 遠藤周作研究(「沈黙」より) 野の花 KJV翻訳:その意図 KJV翻訳:創世記