2004/11/23

神に近づくために

論述:「離脱について」より

 これは、この研究で取り上げたテキストの中にただ一つ含まれている論述であり、これまでの説教の集大成と言えるような位置づけのものである。
 エックハルトは、聖書を含むたくさんの書物を勉強し、たくさんの師の語ることを聞き、彼の全力を傾けて捜し求めた末、離脱に勝る徳はないことを発見した。
 「離脱」とは、「自分を捨てる」ということであり、私たちが主イエスに従いゆくときに求められるものである。ただ、エックハルトの場合には、それが極めて徹底して行なわれるために、かえって自分に執着しているかのようにさえ思われることがある。例えば、彼が自分を捨てると言うときは、この世界のすべての誘惑から自由になるために、この世界から完全に断絶し、自分の内にしっかりと閉じ籠もるのだ。それは、外から見れば自分に過度に執着することのように見えるだろう。しかし、彼は、何か手に持ちながら自分に閉じ籠もるのではなく、あらゆるものをあきらめてしまっているのだ。そして、その状態で彼が頼るものは、神以外にない。彼は、彼の全存在を神に投げ出して、神の御業を待ち望む。彼は、祈るのだ。全身全霊を込めて。この状態は、非常な緊張感ある状態だ。それはちょうど、強風の中に、空の一点にいつまでも留まり続ける、鷲のようだ。そしてそれは、人間が、神の前にもっとも大きな可能性を持つときでもある。彼は鷲のように神に向かって舞い上がる。エックハルトの言う「離脱」とは、そのようなものだ。それは、けっして仙人のようになることではなく、この現実の世界の中に真に回帰して、そこでいきいきと生きることだ。
 またそれだけでなく、「離脱」の中にある者は、生活のあらゆる局面において、神の御心を知る。彼は、どこにいても同時に神の御前に侍り、「神のかすかな目配せ」を受け取ろうと、御顔を仰ぎ、待ち望んでいるのだ。そのように彼の活動範囲は、地と天を包含したもの、すなわち神が造られたすべてのもの、神の支配の全領域なのだ。
 エックハルトは、この論述の締めくくりとして語っている。
 『さて、思慮深い人はみな、よく聞いてほしい。あなたがたをこのような完全性へと運びゆく最も足の速い動物は、苦しみである。キリストと共に最も大きな苦しみに立つ人たちにまして、永遠なる甘美を多く享受する人などはいないからである。』
 これまでわたしが紹介したすべての説教を語った人がまたこのように語っていることを心に留めるべきだろう。
 今日、いろいろの人がエックハルトをとりあげている。そして、少なくない人が、彼がキリスト教と仏教の橋渡しをすると考えているようだ。しかし、ここであえて言っておきたい。それは大きな誤解だ。エックハルトは、そのような考えを持っていないし、そのような考えを決して歓迎しないだろう。
 彼は、はっきり言っている。『子を通らなければ、だれも父のもとに行くことはない。』
 彼は、キリスト以外を否定する。すべての恵と神を知る知識は、ただキリストを通して私たちに来るのだ。
 私は、この 小さな研究でエックハルトを通して多くの新しい発見をすることができた。彼に感謝したい。そして、それを表す最良の言葉は、ただ神への賛美しか有り得ないと思う。
 栄光がとこしえに、父なる神と御子イエス・キリストにありますように。アーメン、アーメン。

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2004/11/22

神に回帰するために

説教:「神と神性とについて」より(マタイ10:28)

 この説教は、これまで紹介してきたどの説教よりも重要なものだ。この比較的短い説教の中に何という神秘が惜し気もなく語られていることだろう。『しかし創造するといったとき、わたしが創造するものは、わたし自身であり、わたし自身によって、わたし自身の内へ、わたしの像を完全に写し入れるのである。』
 これらのことは、エックハルトの単なる考察だろうか。かつて誰もこのようなことを語った人はいなかった。しかし、このことだけは言える。エックハルトの言っていることはすべて首尾一貫している。彼の考えは、そのつど思いつきで考え出されているものではなく、彼の内にきちんと体系立てられており、そして彼自身がその内に歩んでいるものなのだ。
 そしてエックハルトは、いつものように読む者が呆気にとられるようなことを平然と語る。『神が天と地、そしてすべての被造物を造ったとき、その際に神は働くことがなかった。』
 この言葉で彼は何を言いたいのか。それは聖書が言っている「創造」ということの真の意味についてなのだ。被造物は、神の言葉により一瞬にして創造された。「初めに神は、天と地を創造された。」これは一瞬のできごとであった。しかしその後で、あの創世記の一連の創造物語が始まる。しかし聖書を良く読むと、神が創造のわざを自ら行なっているのは、2箇所だけだ。すなわち、「初めに天と地を創造された」ときと「御自分にかたどって人を創造された」ときである。あとは、言葉で命じることにより生成させられた。神は全能であり、神の言葉には無限の力が秘められていたのだ。しかしエックハルトは、神の言葉以上に、神の創造のわざに注目する。
 『神が人を創造したとき、そのとき神は魂の内で神のわざと等しきわざを顕わした。それは神が現に働いているわざであり、永遠なる神のわざである。そのわざは、魂以外の何ものでもないほどに大いなるものであり、また、魂さえも神のわざそのものに他ならないのである。』
 彼は、今とり挙げているこのテキストにただ一編含まれる論述「離脱について」の中で述べている。『神は天と地とを、わたしたちが時の流れの内で「これこれが生成せよ」というときのように創造したわけではない。すべての被造物はすでに永遠なる言の内で語り出されているのであるから。』つまり彼は、「神が初めに天と地を創造した」そのとき、神は何か、物造りのように創造したのではないと言っているのだ。そうではなく、彼の言葉で言えば、「神のわざを顕わした」つまり神はこのときから被造物を存在させ、かつ存続させる「神のわざ」を開始されたということなのだ。彼によれば、被造物は、神によらないでは、自分自身によっては一瞬たりとも存続できない。被造物は、各瞬間毎に神によってこの世界に在らしめられているのだ。そして、この被造物を各瞬間毎に在らしめるところの神のわざが始まったのが天地創造の瞬間だというのだ。
 そして、2番目の創造としての「人の創造」においては、神は、今度は「魂を在らしめる神のわざ」を始められたということになる。そして、神は一つ一つの魂を創造する度毎に「新たな神のわざ」を始められるということなのだ。しかも神は魂を御自身に形どって創造された。だから、神が魂を創造する度に始められる神のわざは、魂そのものとも言えるだろう。あるいは逆に、魂は神のわざそのもの、つまりある意味で神そのものとも言えるだろう。
 そのような訳だから、『神はまたすべての被造物をも愛する。ー被造物としてではなく、神として。(神のわざとして)」』
 以上がこの説教の前段であり、この後の展開の準備である。エックハルトは、本論に入りながら熱を込めて語り始める。『さあ、注意をして聞いてほしい。すべての被造物は、その最高の完全性を求めて運動している。永遠なる真理にかけて、変わることのない真理とわたしの魂にかけてわたしがこれから語ることをどうかよく理解していただきたい。それはいままでにわたしが一度も語ったことのないことである。神と神性とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている。』
 この説教は、非常に難解なものだ。凡人には殆どその意味は理解できない。しかしこの研究では、ある程度の危険を犯しても、彼の言っていることの意味に迫りたいと思う。
 神から流れ出るものが二つある。被造物と魂だ。そしてそれらは共に流れ出ながら神の内に留まりつづける。神は被造物を神から流れ出るものとして創造されたのだ。そしてエックハルトは語る。『すべての被造物は、その最高の完全性を求めて運動している』と。この完全性とは、神の元へ戻ること、回帰することである。なぜ彼らは出てきたのか。いや、単に出て来た道を帰るのではない。彼らが出て来たのは、実は帰る途上だったのだ。「なぜ帰るのか。」聖書全体を通して、この「出てきたところへ帰る」というモチーフが繰返し現れてくる。聖書は言っている。彼らの国籍は、天にある」と。彼らは、「いと高き神の子ら」である。彼らが出てきたのは、被造物を相続するためだった。神の子として。
 『すべての被造物はその有のためにその命を捨てる。すべての被造物は、わたしのうちで精神的に存在しようとして、みずからをわたしの知性の内へ運び入れるのである。すべての被造物が神へと再び帰りゆくのを用意するのは、わたしだけなのである。』
 被造物は、それをわたしが相続するために創造された。つまり被造物が神へと再び帰りゆくことは、わたしがそれらを相続することによるとエックハルトは言っているのだ。
 『神が成る。すべての被造物が「神」と言うとき、そこで神は「神」となるのである。』
 わたしが被造物を相続するときに、私はその与え主である父なる神を認識する。わたしがその目的を完了しすべての被造物を神の御元へ回帰させるとき、私も神の御許へ帰り、すべてが一つとなる。神はもはや神であることを終えられ、私にとって、新しい何かになられるのかもしれない。
 『わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流と源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである。このように帰り来たったとき、「神」は消えるのである。』
 エックハルトは、この説教にすべてを掛けているように思える。
 『この説教を理解した人がいれば、その人にこの説教をわたしは喜んで捧げたい。しかしたとえここに聞く者がだれひとりとしていなかったとしても、わたしは今日の説教をこの献金箱に向かってでもしたにちがいない。これから家にもどり「慣れたところで、いつものパンをかじり、神に仕えりゃいい」というあわれな人も多くいることであろう。わたしは永遠なる真理にかけて言うが、このような人たちはいつまでも迷いつづけなければならず、心の貧しさを手に入れることもなく、新たな天地のもとで神に従いゆく人たちが勝ち取り獲得するものをけっして手に入れることもないであろう。アーメン。』

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2004/11/20

神と共に生きるために

説教:「観想的生と活動的生とについて」より(ルカ10:38)

 エックハルトはここで、あの聖書の中の有名な「マリアとマルタの話」を引用している。この話の中のマリアとマルタについては、実に様々な解釈がされている。エックハルトは、ここで独自の解釈を展開している。それは、すでになされている解釈の他に、新たな解釈を付け加えようというのではなく、神と共に生きるとはどういうことかを示すためだ。
 彼は語る。『三つのことがマリアを主の足元に座らせたのである。第一に、マリアの魂をとらえたのは、神の慈しみであった。第二は、大きな、言い表しがたい願望であった。彼女はなにものともわからぬものを願っていたのである。第三は、キリストの口から流れ出る永遠の言葉より彼女がくみとった甘美な慰めと歓喜であった。マルタもまた三つのものによって、立ち働き、愛するキリストに仕えるように動かされたのである。第一は、円熟した年齢と、極限まで鍛え抜かれた魂の根底であった。そうであるからこそ、もてなすという仕事には、自分をおいて他に適しているものはいないと彼女は信じたのである。第二は、愛の命ずる最高のものを目ざして、外的な仕事を手ぎわよくさばくことを知る賢明さであった。第三は、愛する客の高い品位であった。』
 この説教で彼が語っているのは、彼が目ざすところの究極的な生き方に他ならない。それを彼は、マルタの生き方になぞらえて述べているのだ。それは、どのような生き方だろうか。
 『このような人たちは事物のかたわらに立っているのであって、けっして事物の中に立っているのではない。このような人たちは事物にごく近く立っているが、しかしそれゆえに彼らははるか遠く永遠と境を接するところに立つときに持つものと少しもかわらぬものをもっているのである。』
 エックハルトの説教の究極がここに示されている。それは、人をして、都会から山中へと退かせるものではなく、かえって人を今生きているところへと、力強く回帰させるものなのだ。そして、その彼(回帰した人)固有の場所で、神への道を歩ましめるものだ。
 「神への道」。エックハルトは、続いて神への道を三つ挙げる。『第一の道とは、多種多様な生業を通じて、燃えさかる愛をもって、全被造物の中で神を捜すことをいう。第二の道は、道なき道であり、自由であり、かつ束縛されている。この道にあっては、人は自分と一切の事物との上に、高く遠く、意志も断ちきり、像によることもなくのぼりゆく。しかしいまだ本質的な永続性は手に入れていない。第三の道はなるほど「道」と呼ばれはするけれども、それは同時に「家郷」に在ることであって、神自身の有において直接に手立てなしに神を見ることである。』
 この道を歩む者は、神を知ると共に自分を知るようになる。私たちは、生まれたままの自分では、自分がなぜ生まれてきたのか知らない。つまり自分を知らないのだ。エックハルトの言う「神への道」は、自分への道でもある。そしてそれは神が創造した、この世界のすべてのものとの新しい出会いの道でもあると言えるかも知れない。

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神を愛するために

説教:「像を介さぬ認識について」より(エフェソ4:23)

 エックハルトは、この説教においても神を愛するということを語るために、まず神を認識することから話を始めている。彼にとって、この「認識する」ということは、何かそれに人間の存在全体が掛かっているような、根源的な行為なのだろう。ここのところは、福音派の信徒として、私はちょっと心配になるところでもある。うまく認識できない人は神の祝福において、何らかの制限を受けざるを得ないのか。たぶんエックハルトは、そうは言っていないのだろう。というのは、彼にとって最高の神の祝福というのは、神から何も受け取らないことなのだから。実際、彼は神から神御自身さえ受け取ろうとしないのだ。たとえそれが可能であったとしても。彼が神を認識しようとするのは、何かの為の手段ではなく、そのこと自体が目的なのだ。そして彼自身は、神の前であえて彼自身でいることのみを望んでいるのだ。そしてさらに言うなら、彼が神を認識するのは、神と自分の違いをより鮮明に認識するためであり、それは同時に神と自分が一つであることを認識することなのだ。
 そして、この説教題としての「像を介さぬ認識」とは、まさにこのことなのだ。つまり、神を認識するために、神から何ひとつ情報(像)を受け取らず、あくまで神とは異なる者として、自分の内に神がおられることを認識することである。
そのためにエックハルトは、私たちの魂が新たにされる必要があると言っている。それでは、彼の言う「新たになる」とは、どのようなことなのだろうか。
 まず、私たちの「認識する」という概念が新たにされる必要がある。彼の言う「認識」とは、外部から行なうことではない。『あなたは、あなたの「自己」からすっかり離れ、神の「自己」に溶け入り、あなたの「自己」が神の「自己」の内で完全にひとつの「自己」となるようにしなければならない。そうすれば、あなたは、神の生起せざる有のあり方とい、神の名づけざる無のあり方とを、神と共に永遠に認識するのである。』
 エックハルトはこの説教で、私たちが霊において新たにされるために必要なことを「6つの指輪」という例えで示している。そしてその中で、驚くべきことを言っている。『しかし、わたしが神をそのような仕方で直接に認識しようとするならば、わたしは端的に彼に、彼はわたしにならなければならない。もっとはっきり言うならば、神は端的にわたしに、わたしは端的に神にならなければならない。』そして、その彼が最後に求めるのは、やはり「神を愛する」ことにほかならない。これらすべては、そのためにこそあるのだ。彼は言う、『神はすべての愛と愛の価値をはるかに超えている。』
 そして、そのようなすばらしい神の御前で、彼は自分を永遠に喪失したいと意志するのだ。彼であることだけを神から永遠に新たに受け取りつつ。

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神の教えを受けるために

説教:「三つの闇について」より(マタイ5:1)

 エックハルトは言う、『神の教えを受けようとする人は、人々の間に広まっている一切のことの上へ登りゆき、それを越え出なければならない。つまりその人は自分を捨て去らなければならないのである。』
 この山の高みにあるとき、人間は神および自分自身以外の何ものについても知ることはないと彼は言う。『人が群衆を後にするとき、神は魂の内にみずからを像なく、写しなく与えるのである。』
 像も写しもない状態、それは闇の中のようなものである。そして、エックハルトが求めているのが、この「最良の闇」のことなのだ。というのも、『神の子は像を超えた神の「像」であり、隠された神性の「像」である』からだ。そして、彼によると、『さらに魂もまた、子が神の像であるようなあり方で、神の子がつくり入れられているまさにその同じあり方で、つくられたのであると。子が受けとるその同じものから、魂もまた受けとるのである。』
 しかし、この世のことに執着している人はそのような状態ではない。『多くの考えを持つ人たちは、多様な事物のもとでいつも外へと向かわせられているのである。』そのような人たちは、そのままでは神の与える新しい命のことを知ることがない。『「山の高み」においては一切の事物は「青々として」新たである。しかしそれらが時間性の内へ落ちると、その内出一切の事物は色あせ、枯れるのである。一切の被造物のこの新たな「緑」の内で主は「その羊を養おう」とするのである。』
 エックハルトは、この説教の中で、3種類の闇について語っている。
第一の闇は、「人が自らの努力で入るところの闇」だ。『神を見たいと思う者は、盲目でなければならない。』キリストが言うように、自分を捨て、この世界に背を向けなければ神を見ることはできない。
第2の闇は、「神が与えたもう闇」のことである。『この光が魂を盲目にして、その結果魂は何も知らず、何も認識しなくなるのだ。』神を知った魂は、そのあまりのすざらしさに他のものを、パウロが言っているように、糞土のように思うことだろう。
第3の闇は、「永遠の昔からある闇」である。『天はそれ自身においては輝きもせず、冷たくも、暖かくもないと。そのように魂もまたこの闇の中では一切の光を失うのである。魂は、熱とか色とか名づけられるような一切を超え出るのである。』神の臨在する場所、この世界の上にある世界には、この世の光は存在しない。「この都には、それを照らす太陽も月も、必要ではない。神の栄光が都を照らしており、子羊が都の明かりだからである。」(ヨハネ黙示録より)
これらの天的な光について、エックハルトはやはり、3種類を語っている。
第一は、「恵みの光」だ。『神が約束を与えようとするとき用いる最も高きものは光である。』
第二は、「一致の光」だ。『魂の諸力と魂それ自身とは完全にひとつである。』
第三は、「超越の光」だ。『それは諸々の光を超えたひとつの光である。』
 以上のように、神秘的なことを語った後、エックハルトは、聖書の言葉を引いている。『ところで神は神の独り子の内にあってわれわれに語ったのである。つまり、わたしは神の内にある小さきものから大きなものに至るまでの何もかもすべてを神の独り子の内で認識しなければならないのである。』(へブル1:2、8:11)
 神の教えは、あくまで主イエス・キリストを通して与えられるのだ。それ以外に道はない。どこにもないのだ。
 『わたしたちが神以外のすべてのものを超え出るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン』

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2004/11/18

神を見るために

説教:「無である神について」より(使徒9:8)

 エックハルトの語る神は、人間から完全に断絶している、と同時に、きわめて近くにおられる神でもある。この二つの概念が同時に成り立つような神と言えよう。「断絶」という意味は、彼が言い、聖書も言っているように、私たちは神を見ることはできないということである。『神へはいかなる入り口もないのである。』
 そしてまた、神へ近づく方法も存在しない。『恩寵や光が上昇したりすると理解している人は、まだ一度も神の内に来たことのない人である。神は増大していくような光ではけっしてない。確かに光の増大を通じて神へ到達したということはあるにちがいない。しかし光の増大のただ中では神の片鱗もうかがうことはできないのである。神が見られるとすれば、神そのものであるひとつの光の内でそれは起こらなければならないことなのである。』つまり、神を見る人は、突然に見るしかないのだ。努力しても無駄であり、いつ見られるかという予測もつかない。ただ、それは起こるということは言えるのだ。この説教で取り上げられているパウロが経験したようにして。
 パウロはどのように神を見たのだろうか。『パウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。』、『光に包まれて彼は地に投げ出され、彼の目は見開かれた。その結果彼は見開かれた目ですべての事物を無として見たのである。そしてパウロが一切の事物を無として見たとき、そのとき彼は神を見たのである。』
 どうしたら、そのような状態になれるのか。それについては、エックハルトもきわめて難しいと言っている。『これはたいへんにむずかしい問題であるが、つまり、まず捜し求めていく知性の内へ突入し、飛躍し、そしてこの捜し求めていく知性がこんどは、もはや捜し求めることのない知性の内へと、つまり、自分自身の内で純粋なひとつの光である知性の内へと飛躍しないかぎりは、天使といえどもこの思惟に関して何も知ることはないのである。』
 しかし、彼は神秘家として、神を見るための方法論を述べる。『一切の過ぎ去りゆく事物があたかもひとつの無のように取るに足らないものともささいなものとも映らないならば、この人は神をけっして見出すことはない。』、『神がみずからを魂の内へ形づくり、注ぎ入れるとき、あなたが神を、ひとつの光として、あるいはひとつの有として、あるいはひとつの善として、つかむならば、あなたが神についてさらに何かあるものを認識するならば、それは神ではないことになる。見よ、この小さきものは超えられなければならず、一切の付け加えられたものは取り除かれなければならない。そして神は一として認識されなければならないのである。』
 再び問おう、「パウロはどのようにして神を見たのか。」
 「パウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。」、『一であるものをわたしは見ることはできない。彼は無を見た。それが神だったのである。』、『あなたが何かあるものを見るならば、あるいは何かあるものがあなたの認識の内へと入ってくるならば、それは神ではけっしてない。神はあれでもなくこれでもないからである。神はここにいるとかそこにいるとか言う人があれば、その人の言葉は信ずることができない。神である光は闇の中で輝いている。神はひとつの真の光である。この光を見ようと思う人は、盲目とならなければならない。そして神を一切の「何か」から遠ざけておかなければならない。』
 エックハルトは、彼自身が神を見た経験をも語っている。『魂が一なるものの内に入り来て、その内で自分自身を純粋に放棄するならば、そこで魂は無の内に神を見出すのである。』、『かつてある人(エックハルト自身であろう)は、あたかも夢の内での出来事のように −それは白昼夢であったが− 子供を宿した女性のように無を宿したと思った。この無の内で神が生まれたのである。それは無の果実であった。神は無の内で生まれたのである。』
 この説教は、まだまだ続く。エックハルトはこの説教の中で、本当に情熱を傾けて、「神を見る方法」について語っているのだ。神は、私たちのすぐ側におられる。見出されることを心から待ち望まれて。
 聖書も言っている。「わたしがもう少しだけ先に進むと、そこにわたしはわたしの魂の愛する人を見つけたのだった。」(雅歌3:4)

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神を認識するために

説教:「三つの内なる貧しさについて」より(マタイ5:3)

 エックハルトは、私たちが神を認識するためには、人は神の前に沈黙しなければならないと言う。彼が、神を認識しようとするのは、キリストが語った「心をつくし、思いをつくし、精神をつくして神を愛する」ために他ならない。そしてそのためには、沈黙する必要があるのだ。
 この「沈黙」についてエックハルトは、この説教の中で「3つの貧しさ」という観点から、展開している。この3つの貧しさは、彼が他の説教の中で述べている、3つの「妨げるもの」に対応している。すなわち、「時間性」、「多様性」、「身体性」である。人がこれらの3つの領域において沈黙するために、3つの貧しさを持つ必要があると彼は言っているのだ。その3つの貧しさとは、「何も意志しないこと」、「何も知らないこと」、「何も持たないこと」である。これらを彼は徹底して追及する。
 まず、「何も意志しないこと」について彼は語る、「最愛なる神の意志を満たそうという意志を彼がまだ持っている限り、彼は貧しいことにはならない。」
 さらに「何も知らない」ことについては、自分が「そのように、何も意志せずに生きているということさえ知らない、というように生きなければならない。」
 また、「何も持たないということ」に関しては、「自分の中に神が働く場所さえ、持っているべきではない。」という。
 これらのことを通して彼が執拗に追及しているのは、「人が形作った神概念の突破」ということだ。人が神を信じ、神を愛すると言っても、彼が信じ愛しているのは、実は彼が思い描いている神概念に過ぎないのかもしれない。もしそうならば、それを突破すろためには、彼のすべての精神領域において、「貧しくなる」ということが追及されなければならない。そうして後初めて彼は、真の神を信じ愛していると言えるのではないか。しかし、それが実現したとき、一体何がもたらされるのだろうか。
 この究極的な状態は、凡人の私たちにはなかなか想像しがたいものがある。自らの内から、これまでに取得し、築き上げたすべてのものを投げ捨てたとき、そこに何が残るのか。彼という偶有的なものがすでに消滅している以上、そこに残っているのは、全知全能の神が創造し、「すべては良かった」と宣言したときの彼自身ではないだろうか。しかし、この「いまなお残っているところの彼」は、木偶人形ではなく、ただ神を愛し、神の御心のみを行なうことを堅く願っているところの彼である。彼は『有から無へと永遠に沈み行き』殆ど消滅しようとしながらも、強力な自己を保持したまま神の御前に立っているのである。この状態で彼が認識するものが、いったい何なのか。それは、もしかしたら、エックハルトの語っている次の言葉の通りなのかもしれない。
 『人がそれほどに貧しくなったのを神が見出すとき、そのときにはじめて神は神自身のわざをなすのであって、人はそのような神を自分の内に受け、かくして、神が働くのは神自身のうちであるという事実から、神は神のわざの固有の場となるのである。ここに至り、つまりこのような貧しさにおいてこそ、人は、彼がかつてあったし、今もあり、そしてこれからも永遠にそうあり続けるような、永遠なる有を再び取り戻すのである。』

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2004/11/16

神を受け取ること

説教:「魂の内にある火花について」より(ある師の言葉について)

 エックハルトは、この説教の中で一つの比喩を語って、それについて次のように述べている。『この比喩をあなたがたが正しく理解することができれば、あなたがたはわたしの考えと、これまでに説教してきた私の全関心の根拠とを理解するであろう。』まことにエックハルトがここで語っているこの比喩は、彼の全説教の核心をついたものだ。
 この比喩の結論として彼は語る。『一人の人間という有の観点からは、わたしの目も耳も共通しているが、わたしの目と耳とのそのような共通性よりは、海の彼方にいてわたしが一度もみたことのない一匹の羊の目と、わたしの目との共通性の方がはるかに大きい。』
 彼はこの比喩で、何を言いたいのか。それは、わたしの目と耳との共通性よりもわたしの目と神の目との共通性の方が大きいということなのだ。彼は、他の説教(「神のために神を捨て去るということについて」)の中で言っている。『わたしが神を見ている目は、神がわたしを見ている、その同じ目である。わたしの目と神の目、それはひとつの目であり、ひとつのまなざしであり、ひとつの認識であり、そしてひとつの愛である。』
 ここで注意しなければならないのは、エックハルトが「ひとつ」と言うとき、それは神と人の間の徹底した相違に基づく「ひとつ」であることだ。それは、異なるものが「ひとつ」であることだ。それは、厳密には「ひとつとなる」ことではなく、「ひとつである」ことなのだ。異なるものが「ひとつである」状態なのだ。そしてそうなるのは、『神自身を生みこむ神の働きの内で神を受け取ることである。』と彼が言うように、「生む」という一つのダイナミックな状態の中でのことだ。そして、それは同時に、永遠の世界の出来事であり、無数に起こることであり、同時にそれがいくら多くても、1回よりも多いということはないことなのだ。それは、永遠の世界の出来事だから。
 エックハルトを理解するということは、この世界と永遠の世界について理解するということだと思う。例えば、私がすごく気に入っているボールペンを持っていたとする。それは、私が買ったものであり、私の自由にすることができ、文字通り私だけの所有物だ。しかし、ある日私が胸のポケットを探ると、それがなくなっていることを発見する。そして、もうそれは出てこない。これは、どういうことかというと、その大切なボールペンは、最初から私の所有物ではなかったということではないだろうか。そのように、この世界のすべてのものは、真に私の所有物とは成り得ないものだ。私がそれを自分の物だという実感を持てるただ一つのことは、それを壊すことくらいだろう。そうすれば、それを壊せるのは私だけだから、それは私だけのものだった証しとなるかもしれない。しかし、この場合困難が一つある。それは、もちろんその大切なものを壊してしまったら、もうそれが存在しなくなってしまうということだ。この世界は、このようなはかないものかもしれない。しかし、これが永遠の世界となると、事態が異なってくる。永遠の世界では、どんなものも古くなったり、歳を取ったりすることがない。すべては、今という時の内に若々しく活動している。そして、そこではすべてのことが可能だ。例えば、私があるものを手に入れる方法は、それを自分のものだと信じることだ。それは、奪うことに等しいかもしれない。イエスさまも言っている。「バプテスマのヨハネのとき以来、天国は激しく責められており、激しく奪うものがそれを奪い取っている。」と。これは、まことに旧約聖書の略奪の様相を帯びている。つまり、「奪う」ということが、このはかない現世における「奪う」ということではなく、もっと積極的で決定的で、さらに無限に自由度のある概念となってくる。私が奪ったものを同時に他の人が奪う。そして、両方ともそれを自分だけのものにする。そういうことが可能なのかもしれない。しかし、それを手に入れるには、「奪う」ことをしなければならない。ただ見ているだけではだめなのだ。「風は思いのままに吹く、あなたがたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのかは知らない。」イエスさまの言われることは、永遠の世界のことだ。
 この世界において、たゆまずに神の御心を行うためには、永遠の世界の知識が必要なのかもしれない。そして、それがエックハルトの求めていたものなのかもしれない。

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神とひとつになること

説教:「神が魂の内に子を生むということについて」より(ルカ7:14)

 エックハルトの言っている「神と一つになるという概念は、私たちが持っている概念とかなり異なっている。彼は言う『そこでは魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である。』彼は「神とひとつになる」とか、または例えば「私が神になる」とさえ言うことがあるが、そのときそこに、私たちが想像するものとは、かなり異なった概念が提起されていることに注意する必要がある。『魂が神の像であるような場で魂が生きるときに、魂は生むのである。そこに本当の合一がある。』つまり、神との合一とは、何かある状態になることの中にではなく、生きるというダイナミックなことの中に存在していることなのだ。
 しかし、これは奥義であって、この世界から隠されている。『神が神の独り子の内へ自らを生むということをすべての被造物は受け取ることができないでいる』
 「独り子」と「被造物」は、密接に関連している。被造物は、独り子のために創造された。『神の働きは、神の子を生むということにある。この誕生の内ですべての事物が流れ出てくるのであり、神はその際神のすべての力を費やすほど、それほど大きな喜びをこの誕生に対して抱いているのである。』そして独り子は、この広い世界のかたすみで、塵にまみれて生きている一人の人間のために死なれたのだ。この父なる神、独り子、被造物としての人間、これらは福音主義的にも密接に絡み合っているが、エックハルトにあっては、それらが互いの領域を越え、ある意味で同化を始めているように見える。しかし、彼はこのことは永遠の昔からのことだと言う。
 この説教においては、「生む」と言うことが重要なカギとなっている。彼は大胆にも言う。『魂は、自分の外へ神を、神から、神の内へと生むのである。魂は神をまさに自分自身から生むのである。』なぜ、魂が神を生まなければならないのだろうか。神が自身を人間の内に生むことはありえないからである。エックハルトにとって、神と人間の断絶はそれほど徹底している。『神は、ただ自らだけしか認識することはない。』と彼は言っている。それゆえ、人の内に神が生まれることがあるとするならば、それは人が自ら神を生む場合である。『そこでは、魂は神の似像である。』「神は人を御自分の形に創造された」という聖書の言葉を、エックハルトは文字通りに受け止める。
 それでは、この説教の主題であるところの「神とひとつとなる」とは、具体的にどのようになることなのだろうか。それは、たぶん聖書の言葉、「神は人を御自分の形に創造された」という聖書の真理(エックハルト的福音)を真に自分のものとすることなのではないだろうか。そしてそれは、私がここでエックハルトを研究している一つの理由でもあるのだ。

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2004/11/12

神を知る方法

説教:「神の言葉について」より(テモテ?U4:2、5)

 エックハルトによれば、人間が神を知る方法は二つある。そして彼は、この二つの方法に対応して、二つの御言葉を聖書から引用する。「御言葉を宣べ伝えなさい」と「どんな仕事にも励みなさい」である。そして、これら二つの御言葉を独自の方法で説明している。
1.「御言葉を宣べ伝えなさい」の解釈について
 『「御言葉を宣べ伝えなさい」とは、これがあなたの内にあることを覚りなさいという意味である。』つまり、エックハルトはここで、内なる探求が、神を知るための一つの方法であることを提唱しているのだ。
2.「どんな仕事にも励みなさい」の解釈について
 『「すべての事物の内で励みなさい」と言う言葉は、三つの意味を持っている。第一には、「すべての事物のうちで神をつかめ」、第二に「すべての事物の内にあって、神の掟を守りなさい。」、第三に「すべての事物において神を等しく愛せよ」ということである。』つまり彼は、ここでは、外への探求のことを言っている。
 つまり彼は、神を知るには、この世界において、自分の内部の探求と外部への探求の両方の道があると言っているのだ。これは、彼の確信する次の事柄に基礎を置いている。すなわち、『外へと流れ出ながら、しかもその内にとどまりつづけるようなものがあるというのは不思議なことである。御言葉が外へと流れ出ながら、しかもその内にとどまりつづけるということはまったく不思議なことである。すべての被造物が外へと流れ出ながら、しかもその内にとどまりつづけるということはまったく不思議なことである。』そして、彼は、これらのものは神が与えたもの、与えると約束したものであり、そららは共にそのようになっていると言っている。『神はすべての事物の内にある。神が事物の内にあればあるほど、ますます神は事物の外にあることになる。神が内にあればあるほど、ますます神は外にあることになる。』エックハルトの確信しているこの事実が、上記の二つの神の探求の方法を提唱させるのだ。
 神が内におり、さらにそれと同時に外に流れ出るものである限り、神を探求する方法もこの二つの方向性に対応したものとなる。そして驚くべきことに、この二つの方向性は、神の天地創造と密接に関係している。『神はこの全世界をそっくりそのままこの今において創造するのである。神が六千年あるいはそれより以前にこの世界をつくったとき創造したすべてのものを、今、神はいっさいがっさい創造するのである。』
 被造物が神の内にありながら、外へと流れ出て行くものであるということは、六千年前も今も変わらないことなのだ。そして、さらに驚くべきことに、この神が天地を創造する場所は、私たちの魂の最内奥だと彼は言うのだ。『過ぎ去ったものすべて、現に在るものすべて、未だ来らざるものすべて、それら一切を神は魂の最内奥で創造するのである。神があらゆる聖者の内において働くわざを神はすべて魂の最内奥において働くのである。父である神はその子を魂の最内奥で生むのであり、その独り子と共に父はあなたを独り子に少しも劣らぬものとして生むのである。』
 私たちがこのことを理解したとき、私たちは御子を通して、全世界を相続することを理解し、受け取ることになる。
 彼は言う、『多くの人たちはこのことを理解できないでいる。しかしそのことはわたしには少しも不思議なことではない。なぜならば、このことを理解しようとする人は、一切の地上の事物から離脱し、それを高く超えていなければならないからである。わたしたちがこの完全性へと到るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン』

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