2009/02/17

神の言葉で生きる

『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 マタイによる福音書 4章 4節

 もちろん私たちは、聖書の権威を尊重する。それが神の口から出た言葉であり、私たちの人生を変革する力を持っていることを信じて、毎週教会に通い、機会を捉えて伝道にも努力する。それが主イエスが言われた「神の言葉で生きる」ということだと理解している。
 しかし、そう考えながらも、一抹の不安のようなものも覚える。というのは、そのように考え、そのように生きている自分自身が、み言葉にどの程度依存しているのかと言うと、せいぜいのところ、日曜日の丸1日と毎日の早朝や深夜の数時間程度であり、それらの大切な日課も、ともすると日常の予期しない出来事や社会的な責任の前に、あるときは中止、またあるときは延期、あるいは棚上げを余儀なくされることがままあるのではないかと思い当たるからである。しかしまた、そのような状況は、私たちが現代を生きる上で、避けて通れない要素でもあり、ただ世の流れに抵抗しようとするだけでは、根本的な解決にはならないと思われる。それでは、いったい何がどうなれば良いのだろうか。
 一つの確信は、私たちは、もう一度、「神の言葉、聖書には、私たちの人生を変える力がある」ということを厳粛に受け止める必要があるということである。というのは、もしそれが本当ならば、私たちの毎日が、上述のように、一抹の不安をいだいたままの状態にいつまでも留まっていることは、あり得ないことだからである。それでは、どこが間違っているのだろうか。一言で言えば、私たちはまだ、「神の言葉で生きる」というところまで行っていなかったということであり、それゆえにあなたの人生は、変革されずに取り残されたままなのである。
 それでは「神の言葉で生きる」とは、どのようなことなのだろうか。まず第一に、聖書の言葉を常に必要とする状況に自分を置くことである。私たちは、聖書を日課として読むのでは、未だ十分ではない。「今日はここまで」というように、節度を保つ必要はない。「神の言葉で生きる」とは、文字通りそれを生きることである。次に、聖書に飢え乾くことである。いつも聖書をむさぼり読み、それを思いだし、口ずさみながら生きることであり、そのようにして、聖書の言葉があなたの肉に浸透するのである。第三に、聖書を暗記することである。それは、日曜学校の生徒のための課題なのではない。それは、まさにすべての信仰者のためのものなのであり、それにより、あなた自身が聖書のみことばそのものとあり、あなたの内にみことばが血のように巡るようになる。
 しかし、そのようになることは、ある意味で狂信的であり、善悪の区別がつかなくなってしまうのではないか。然り、その通りである。罪に陥る前のアダムには、善悪の区別がなかった。彼にとっては、すべてが善であり、悪を知らなかったのである。しかし、彼が罪に墜ちたとき、彼は善悪を知る者となったのであった。そこで、私たちが最初の浄福に立ち帰ろうと願うなら、それは、善悪の区別がつかない状態が目指されるのである。それでは、悪というものを知らない人が、罪の世において、いかにして悪を避けることができるのか。それこそが、「神のことばに生きる」ということの最初の目的なのであり、すべての霊的な事柄への扉なのである。

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2008/11/09

キリストの恵み

 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」 エペソ1:3

 キリストの恵みは、完全な恵みである。この恵みが覆うことのできない罪はないし、この恵みの他には、もはやどんな恵みも必要ではない。これは、すべてを満たし、私たちはそれにより完全な喜びと平安で満たされることができるのである。
 かつて信仰の人アブラハムは、神から大いなる恵みをいただき、その御約束の通りに、彼から海の砂、空の星のような子孫が生まれ出てきた。そして、それらの人々はアブラハムを信仰の父と呼んだ。また、モーセは神により、信仰を与えられ、それにより大いなる奇跡を行い、イスラエルの民をエジプトから導き出した。また、ダビデも神から与えられた信仰により、神に永遠に愛される者となり、キリストの父と呼ばれるまでになった。
 ああしかし、キリストにより私たちに与えられた恵みは、これらの信仰の偉人に与えられた恵みさえも遥かに及ばないほどの大きな恵みである。主イエスご自身が言い現されたように、女から生まれた者の内、洗礼者ヨハネよりも大きな者はこれまで起こらなかった。それゆえキリストは、彼から洗礼をお受けになったのである。しかし、主イエスは続けて言われた。「天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と。すなわち、私たち、主イエスを信じて天国に行くことを約束されている者は、かつてこの地上に生きた、どの信仰の偉人よりも大きい存在とされているのである。
 それゆえ、私たちは、自分に与えられた恵みの大きさをもう一度深く認識する必要がある。私たちは、時として、日常の仕事に疲れ、そんな自分を慰めるために何か気分転換をしたり、おいしいものを食べたりすることがある。もちろん、それは神から賜った恵みであり、信じて受ける分には、悪いものでないばかりか、神への感謝の機会となるのであれば、それは喜ばしいことでもある。しかし、もしそれが何かの事情により、与えられないかまたな適わないとしても、私たちには、それを上回る大きな慰めが約束されているのである。私たちがもし、欠乏の中にあるときに、なお、私たちと共にあるキリストの恵みを信じ、それに思いを馳せるならば、まさにそのときに、天が開かれて、あのかつてのマナのように、超自然的な喜びと賛美が私たちの心を満たすということが実際に起こるのである。それは、そのことを実践した者でなければ決して分からない。それは、キリストの言われた、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」という約束の成就なのである。人は、往々にして、このことが起こる前に、自分の力で恵みを獲得しようとし、それを得てしまう。それゆえ、この奇跡を経験することもまたない。しかし、聖書の約束をどこまでも信じ、待ち続ける者には、それが与えられるのである。それを経験するとき、その人のキリストとの関係は、180度転換する。彼には、キリストがどのようなお方なのかが理解される。そして彼は、その恵みのあまりの大きさの故に、もはやキリストから片時も離れることはなく、耐えざる感謝のうちに、つねにキリストに仕える者とされるのである。

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2008/05/21

旧約聖書の復興

「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。 ヨシュア記 第1章 2節

 ここに記されている「モーセ」が律法を表しているとすれば、「モーセが死んだ」とは、「律法の世界が終わった」ということを示す。そして、ここで神が語りかけておられる「ヨシュア」は、ヘブル語で「イエス」であり、その意味は「主は救い」である。
 このヨシュアこそ、律法の世から、まったく新しい約束の世へ民族を導いて行くただ一人の勇者であり、神は、主イエスにより、この救いの御業を完成されたのである。しかし、ヨシュアに率いられて約束の地に入ったイスラエル民族は、そこの先住民族をすべて滅ぼし尽くすことはできず、それらの民の一部を領土の中に住まわせ続けることとなったので、それら異邦の民は、彼らを誘惑する罠となり、イスラエルに完全な平和が訪れることはなかった。そして、ヨシュアが老年に達したとき、神は再びヨシュアに言われた。「あなたの征服すべき地は、まだ多く残されている」と。
 私たちが生きる現代の状況は、この老年のヨシュアの状況に似ている。私たちの前には、主イエスが成し遂げられた偉大な御業とそれによりもたらされた無尽蔵の祝福が用意されている。しかし、まだだれもそれを完全に手にしていないかのようだ。日本におけるクリスチャンの割合は非常に低く、教会の中にも心の病を持つ人がたくさんいる。悪の力は、現実の社会においても、インターネットの仮想社会において横行し、多くの人が、物理的にも、精神的にも圧迫を受けて、苦しみの中にある。キリストの福音には、それらの人々を解放する力があるのだが、それを届ける人、すなわち働き人が、量的にも質的にも、圧倒的に不足しているのである。
 このような今日の状況を、上述のように旧約聖書との関連において把握する者は、また自分が今どのような立場にあるかをも理解するだろう。すなわち、私たちは、まだ戦いの中にあるのである。そしてこれは、悪の力との戦いであり、この戦いは、主の戦いなのである。このことに思い当たったとき、その人にとって旧約聖書は、生きた現実として復興する。なぜなら、そこには、主の戦いについて記されているのだから。旧約聖書のすべては、主の戦いであり、私たちがその戦いを雄々しく生き、そこに約束されている勝利を主イエス・キリストにあって勝ち取るために記されたのである。

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2008/04/10

友であり、王であるお方

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:15)ー「キリスト・イエスの囚人パウロ」(フィレモンへの手紙1:1)

 信仰者は、自分を主イエスの「僕」と呼ぶ。しかし、主イエスご自身は、信仰者を「友」と呼ばれる。彼は、私たちを僕とは見ておられないのである。と言うのも、主イエスは、信仰者をロボットのように操られるのではなく、彼らの心に臨在される一方、彼らが自らの意志で、ご自身に従って生きることを願っておられのである。しかし、信仰者がこの主イエスの御心にどこまでも従って生きようとするなら、彼は、主イエスを自分の友と見るわけには行かない。彼は主イエスを絶対服従すべき王と見なければならないのである。このように、主イエスが私たちを見る見方と、私たちが主イエスを見る見方には大きな相違があるが、それは決して矛盾などではなく、むしろ正にそのことこそが、私たちと主イエスの関係、すなわち私たちの主イエスへの従い方を提示しているものなのである。
 それでは、この二つはどのように調和するのだろうか。それは、私たちが主イエスを自分の王として、完全に服従することにより、私たちは主イエスの友となることができる、という形である。私たちが主イエスを友とするのではなく、主イエスが私たちを友として下さるのである。そして、主イエスが私たちをご自分の友とされた後も、主イエスは私たちの王なのである。
 私たちは、このことを理解しなければならない。すなわち主イエスは、王であり、同時に友であるということを。私たちは、主イエスの命令を理解する。そして、それに従うことも、背くこともできる。その意味で、主イエスは私たちの友である。しかし、私たちが主イエスに従おうとするなら、彼に死に至るまで、完全に従わなければならない。その意味で、主イエスは王なのである。
 このことを私たちが理解したとき、これらを調和させるために私たちがなすべきことは何だろうか。それは、「自分を捨てる」ということであり、正に主イエスの次の命令を守ることである。すなわち、「誰でも、わたしに従って来ようと思うなら、自分を捨て、日々十字架を負い、それからわたしに従ってきなさい」。そして、このような主イエスとの関係は、旧約聖書に出てくる、勇士たちの美しい関係(例えばダビデとヨナタンの関係)なのである。

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2007/04/22

復活の主イエス

『さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。』(マタイによる福音書 第28章16節より)

 主イエスの生前に寝食を共にした弟子たちの中に、復活の主イエスにお会いしてもなお疑う者がいたとは。彼らはなぜ主イエスのお姿を目の前にして、その方がイエスであることを疑ったのか。顔姿は同じでも、別人だと思ったのか。それとも、そのときの主イエスのお姿は、生前のそれといくらか、あるいは著しく異なっていたからなのか。

 『その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いていく途中、イエスが別の姿でご自身を現された。』(マルコによる福音書 第16章12節より)

 主イエスは、生前と違う服装に身を包んでおられたのか。それともまったく別人の顔立ちだったのか。この二人の弟子は、いつのまにか近づいて来て共に歩んでいた主イエスに、まるで見知らぬ旅の人にするかのように語りかけている。
 人がある人をその人だと認識するのは、どういうことを通じてなのだろうか。こんなことを考えてみた。つまり、何年かの間親しい関係を築いてきた若い男女がいたとしよう。二人は近々結婚の約束をしたとする。ところが、男性の方が車を運転中に交通事故に会い、そのときたまたまシートベルトをしていなかったためにフロントガラスに頭から突っ込んでしまい、顔に大怪我をしてしまった。大手術の上なんとか正常な顔には戻ったが、その顔はもとの顔とは似ても似つかないものになってしまったとしよう。そのような不幸なことが実際にあるかどうかは別として、彼のフィアンセの彼女は、それでも彼と結婚しようと思うだろうか。もし彼女の愛がある程度深ければ、きっとそれでも彼と結婚するのではないかと私は思う。もしそうなら、そのとき彼女は、何をもって彼を認識しているのだろうか。彼の顔以外の体だろうか。それでは、もっともっと意地悪な想定をすることができる。つまり、彼が交通事故の結果、片足を失ってしまったとか・・・・・・。彼をいじめるのは、もうこれくらいにしておきたいが、要するに、人は何をもってある人がその人であることを認識し、なおもその人を愛することができるのかということである。今想定したのは、結婚を間近に控えた男女であったが、長年連れ添った夫婦の場合には、なおさら切実な問題ではないだろうか。
 私は、こう考える。つまり、人がある人をその人だと認識するのは、顔でも姿でもなく、なにかもっと本質的なものなのだと。たとえその人の顔や姿が損なわれても、声が変わっても、決して変わらない何かがあると思う。たとえ五感で認識できるありたけのものが変わってしまっても、私なら、もしその人が私の妻だということが証明されるなら、あるいは私にそう信じさせるものがあるなら、きっとその人を自分の妻として持ち続けるだろう。

 『一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かった。』 ルカによる福音書 第24章30節

 彼らが復活の主イエスを認識したのは、きっと顔や姿ではなく、もっと本質的な何かだったのだと私は信じる。そして、その本質が見えない人は、「疑った」のだった。
 それでは、現代を生きる私たちは、復活して今生きておられる主イエスを、何によって認識するのだろうか。しかり、それはかつての弟子たちとまったく同じではないか。私たちは、主イエスのお姿を見ることはできないかもしれない。しかし、私たちにいま働きかけ、導いておられる主イエスを私たちは感じることができる。それは、まぎれもなく復活の主イエスである。なぜなら。

 『聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。』 ルカによる福音書 第24章32節

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2007/03/19

義という凶器

彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。(使途9:4より)

 パウロは、諸教会へ宛てた書簡の中で、自分が律法において落ち度のないものであったと書いている。そのように彼は神の前に義なる人間であった。しかし、それでも彼は、自分が神の前に義とされるような完全な人間でないことは自覚していただろう。そして、そのことがまた、神の前に彼を正しい者としていたのである。そのように、彼は何重にも周到に自分の義の上塗りをしていたのであり、それはまた神に喜ばれることでもあったのである。
 今日においてもこのパウロのような人が存在する。神に祈りを捧げ、神の奇跡を神じ、神に忠誠を誓い、真実を尽くし、正直に生き、忠実に行動する人がいる。彼は神に喜ばれる存在であるゆえに、神は彼の願いを聞き入れてくださる。彼には奇跡が伴い、彼が祈ると病人も癒される。
 ああしかし、まさにそのことのゆえに、神は彼を裁くことができないということを彼は知らない。たとえ彼が神の御心を行っていなくてもである。そうだ、まさにそのような状態の彼こそ、改心前のパウロその人に違いない。
 神は、パウロが神の御心を本当は行っておらず、その人生が神の前にすべて無駄であり、無に等しいということを知っておられながら、パウロを裁くことがおできにならずにおられた。それは、パウロの義が邪魔したのである。なぜなら、神は正しいお方であり、正しい者を裁くことがおできにならないのである。
 それゆえ、今日においても、義なる人生を生きながら、ただ神の御心を行うという一点において、それを成していない人間がいるなら、神はその人を裁くことがおできにならない。そして、その人の人生は、実を結ぶことがなく、神の前にまさに無そのものであるという悲惨が起こることになる。
 しかし、パウロの場合には、そればかりではなかった。彼はついに神の前に罪を犯すことになる。すなわち、罪のない人を迫害することを始めた。それは、パウロにとって、とげのある鞭を蹴ることであった。この段階に及んで、神には、初めてパウロを裁くことが可能となった。神は、どんなにこのときを待っておられたことだろう。神の愛は真実な愛であり、義なるパウロを愛し、待っておられたのである。そして言われた、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか。とげのある鞭を蹴れば、足が痛いだけである」と。
 神はどこまでも正しい、愛のお方なのである。だから、だからその愛なる神の前に、自分の義を立てようとする者の罪はどのように大きいか。それは、神にも裁くことのおできにならない罪なのだ。この罪を除き去ることのできるものはただ永遠だけだ。神は、愛の神であるゆえに、この永遠の力を借りて、彼のかたくなさを裁かれ、彼を罪から解放されるのである。

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2007/01/14

戦いの人生(サムエル記下11章より)

 ダビデは、イスラエルの歴史の中で、もっとも神に愛された王であろう。彼ほどに神を愛し、神に忠実であった王はいなかったと思う。しかしその彼が、神に対して大きな罪を犯してしまったことが聖書に書かれている。そしてその罪は、聖書の中に永遠に書き記されてしまうことになる。新約聖書においても、最初の福音書であるマタイの一章に、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ・・・」と記されてしまっている。ダビデのこのような汚名を聖書は、なぜにこうまで執拗に書き記し、それを私たちが今読んでいるのだろうか。
 聖書には、「年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン陣を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた」と記されている。その後、彼の目は、「屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた」のである。ダビデが罪に落ちて行ったのは、このときからだろうか。それとも彼がバテシバを召し入れ、床を共にしたときだろうか。主イエスは、「情欲を持って女を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯したのである」と言っている。ダビデの心に罪の心が生じたのは、いつだったのだろうか。
 私はこのように考える。つまりダビデの罪は、11章の1節から始まっていると。ダビデが戦いに行かずに、王宮に留まっていたとき、すでにダビデは罪への道を歩み始めていたのだ。彼が王宮にただ一人残ると同時に、彼は罪に向かって歩き始めていた。だから、彼が罪を犯すのは時間の問題だったのだ。
 ダビデは、王であると同時に戦士だった。だから彼は、戦いを離れて、一人王宮に留まっているべきではなかったのだ。同じように、主イエスを信じて、生涯を捧げたクリスチャンもまた戦士である。だから、彼が戦いから離れて、安穏とした生活を送るとき、彼を待っているのは罪を犯すことなのだ。イエス・キリストが天から来られて、十字架に掛けられて私たちの罪を購い、死から復活されたことにより、旧約聖書の歴史が空しくされたのではない。それは、今も私たちに語りかけている。「あなたがたは、戦士である。あなたがたは、勇士である。あなたがたは、ダビデである。」と。
 アダムが罪を犯した原因は、何だったのか。彼が神の「地を従わせよ。」という神の命令を受けながら、エデンの園で安穏とした生活を送っていたからではなかったのか。もしアダムが敵であるサタンの存在を知っていたら、彼の戦いの生活は始まり、彼は勇士となっていただろう。そのように、私たちクリスチャンの生活は、戦士の生活であるべきなのだ。そしてその軍隊の総指揮官は、イエス・キリストである。このお方の前に跪き、忠誠を近い、このお方と共に戦士として世に出て行くとき、私たちは始めて罪から開放された歩みをすることができるのだ。

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2006/11/25

罪の許しと解放

「私もあなたを罪に定めない。もう罪を犯さないようにしなさい。」
 人が罪から解放されるためには、二つのことが必要となる。一つは、自分が犯してきた罪をすべて赦されること、そしてもう一つは、もう罪を犯さないようにされることである。
 自分の中にまだ赦されていない罪があるうちは、人は正しく生きる力を持ち得ない。正しく生きられるのは、ただ正しい者だけだからである。そこで人が正しく生き始めることができる為には、まず彼の犯した罪がきれいさっぱりと赦される必要がある。
 しかし、たとえ人の罪がすべて赦されたとしても、彼の状態が以前のままならば、再び罪を犯す運命が彼を待っているだけである。そこで彼の罪の性質が根本から変えられて、もはや罪を犯す可能性からも解放される必要がある。そのようなことが果たして可能だろうか。
 しかしこれら二つのことは実は異なるものではなく、一つのことなのだ。すなわち、罪が赦されるのは、彼が二度と罪を犯さないことを前提にしているのであり、主イエスが言われたのはそのことなのである。つまり、私たちは、もう二度と罪を犯さないようにされるまでは、完全に罪の赦しを受けとってはいないのである。
 それでは、どのようにすれば罪の許しと共に、罪の性質からも解放されて、もはや罪を犯さないような存在へと変えられることができるだろか。それはただひとつ、人が主イエスご自身を知ることである。それも自分のすべてのすべて、つまり救い主として知るのである。
 人が罪から解放されるか否かは、ただ彼が主イエスをどのように知るかにかかっている。ある人は、主イエスの十字架を自分が充実した人生を楽しむためだと思っている。またある人は、それを自分が人生の困難を克服しつつ生きるための新たな力を得るためであったと思っている。しかし主イエスは、断じてそのようなことのために死なれたのではなかった。彼は、あなたがもはや自分のための人生を歩まず、あなたのすべての希望を打ち捨てて、あなたの人生のすべての時間を主イエスのために捧げるようになるために死なれたのである。
 父なる神さま。聖霊の助けを切に求めます。わたしがそのような人生を歩めますように。このことが私のただ一つの願いで有り続けますように。

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2006/04/30

復活のイエス

『しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。』 マタイ28:16,17
『その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現わされた。』 マルコ16:12
『彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。』 ルカ24:30,31
『弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。』 ヨハネ21:12

 これらの聖書の箇所から、私は次のように結論する。すなわち、復活した主イエスの顔形は、生前のそれと大きくことなっており、別人のようであったと。

 なぜそのようなことにこだわるのかというと、このことは、主イエスの復活が信仰により受け取る事柄であることを要求するからだ。もちろん主イエスの復活は、事実であり、私たちが信じようと疑おうと、そのようなこととは関係なく、事実であることに変わりはない。しかし、それでもこのことにこだわるのは、主イエスといっしょに生活し、主イエスの行われた奇跡を何度もその目で見た弟子たちが、このとき見た復活の主イエスは、別人の姿であったということは、どうしてもそうでなければならなかったのだと思うからである。つまり、今天で神の右の座についておられる復活の主イエスの顔は、かつてこの地上を歩まれ、私たちの代わりに十字架に掛かられたそのイエスの顔とは違うということだ。そして、まさにこのことにより、私たちが復活の主イエスを知り信じることと、彼ら初代教会の弟子たちが復活の主イエスを知り信じることとは、まったく同じことであると言えるからだ。まさにこのことにより、私たちは初代教会の弟子たちと、信仰において同じスタートラインに立っているのである。
 もし、永遠から永遠まで生きておられる主イエスの顔を弟子たちが見たのなら、その復活の主にお会いしたのなら、彼らにとっては、主イエスの復活は、信仰の事柄とはならず、単なる事実となったことだろう。「単なる事実」それは、無味乾燥であるばかりでなく、カルト的である。その事実は、彼らをがんじがらめにし、ときには恐怖にさえ陥れかねないものとなったであろう。なぜなら、彼らは永遠から永遠まで生きて支配しておられるお方の御姿を見てしまったのだから。
 私たちは、自分たちが何をどう信じ、何によって励まされ、歩まされているのかをよくよく考える必要があるだろう。パウロも言っている。『今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。』 コリントⅠ 13:12 私たちが主の本当の御顔を見るのは、パウロの言っている「その時」であろう。
 そしてこのことは再び、もっと驚くべき結論の前提となる。それでは、かつてこの地上を歩まれた主イエス、そして復活された主イエスの御顔が共に、本当の主イエスの御顔ではないとするとどうなるのか。しかし、地上を歩まれた主イエスも復活の主イエスも共に決して偽者ではなく、本当の主イエスであった。それは、主イエスは、この地上において、主イエスご自身の肉体の属性をとられたのではなく(処女懐胎ということはあるにしても)、何の変哲もない人となられたということなのである。おお、それは、今日においては、主イエスは、私として、またあなたとして信仰の生涯を送りたいと欲しておられるということではないか。そのために主イエスは、天の父に願って、聖霊をこの地上に送っていただいたのである。
 この随想を読んで、多少なりとも共感してくださる方には、次の主イエスの言葉をお贈りしたい。
 『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 マタイ25:40

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2006/02/12

異言の奇跡

第一コリント 14章2節 「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。」

 これは、なんと言う奇跡だろうか。
 神の栄光は、人の言葉ではとうてい語り得ない。どんな地上の言葉を使っても、神を褒め称えるには、とても足りない。それは、神の栄光の前では、限りなく低く、おろかであるからだ。もし、人の言葉で神を褒め称えるならば、神は喜んでくださるだろうが、それは空を打つ拳闘のようなものかもしれない。神の栄光は、人の思いをはるかに超えているからだ。
 ああしかし、ここに、神に向かって、語るべき言葉が人に与えられている。私は、神に向かって、何を語ったらよいのか分からない。何を語っても限りなくおろかな、そしてうつろな言葉に過ぎない。しかし、神はそんな私に言葉を与えられる。今語ろうとするまさにそのときに、神に向かって語るべき言葉、讃美すべき言葉、それを神は、今私に与えてくださる。私は、その言葉で神を讃美できる。神に向かって有意義なことを語ることができる。私の耳はそれを聞くが、私には理解することはできない。それは、私の理解を超えている。しかし、私の霊は知る。私のその言葉が、神に受け入れられていることを。なぜなら、それは神の心から発して私の口から出ているからだ。
 ああ神よ、ありがとう。本当にありがとう。この言葉をありがとう。これは、私にとって何にもまさるもの。命のパン以上のもの。私のすべてのすべて、望みの望み、よろこびのよろこび、愛の愛、あなたとの至福の時間であり、永遠そのものである。

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