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2020/07/22

神への接近

 神の人になるためには、私たちは、神に近く必要があるだろう。聖書に、「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」とある。つまり、神に近づいてもらうためには、まず私たちの方から神に近く必要があるのである。しかし、「神に近く」とは、どういうことだろうか。どうすれば、神に近くことになるのだろうか。
 私は、旧約聖書の記事は、すべて今日の私たちの状況の比喩でもあると信じている。例えば、シナイ山に神が天から降りて来られたとき、イスラエルの民は恐れ、「これ以上神の声を聞いたら、私たちは死んでしまう」と言い、モーセに「あなた一人が代表して神から言葉を聞いて、私たちに伝えてください」と言った。つまりモーセは、民を神に近づけようとしたのだが、民はそれを拒み、モーセに間に入ってくれるように頼んだのであった。また、サムエルに対してもイスラエルの民は、「私たちに先立って進む王を立ててください」と要求した。彼らは、神と自分たちの間に人間を立て、その影に隠れようとしたのであった。
 私たちの場合は、どうだろうか。聖書を読み、み言葉を暗唱し、それに従って生活しようとはするが、自分の一挙一動を神に従うようにしたいとは考えない。「そんなことしたら、死んでしまう」と考えるのではないだろうか。そして、それが正にシナイ山におけるイスラエルの民の心境なのであり、み言葉に準拠していさえすれば、それ以外のことは、自分の自由に生活しても良いというお墨付きを得ていることに案じているのではないだろうか。そして、今の生活のささやかな喜びを、天国にもきっと持って行けると考えているのではないだろうか。
 でも、もし仮に、「そうではない」ということだったらどうだろう。私たちの一挙一動を神に捧げなければならないとしたら。それが、「神の人」になることの代償だとしたら。それは、大いにあり得ることではないだろうか。旧約聖書の神の人と言えば、まずモーセ、サムエル、エリア、エリシャ、等々が思い浮かぶが、彼らの人生はどうだっただろうか。また、イエス・キリストの人生は、どうだっただろうか。
 私たちは、どうしたら、神に近づいていただけるだろうか。それを毎日考えていようではないか。

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