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2020/07/09

遅れる傾向

 聖書を読んでいて、一つの傾向に気づいた。それは、「遅れる傾向」である。
 まず、創世記の始めの方では、神様が天地を作ってから一休みし、それからエデンの園を出て、どこかへ行かれたようなのだが、戻ってきたときには、アダムとエバがすでに罪を犯した後であった。もう少し早く戻って来ていたら、止められたかもしれなかったのに。
 それから、アブラハムにしても、神様が子孫を空の星のように多く与えると約束しておきながら、彼がもうすぐ100歳になろうというのに、まだ子供を下さらなかった。これも、大いに遅れたと言うべきだろう。
 それから、イスラエル民族がエジプトを脱出してから、約束の地に入るまで、通常なら10日かそこいらで行けるところを40年以上もかかってしまった。彼らが神のご計画を疑ったので、当初の計画が変更されてしまったのである。
 また、小さなこととしては、サムエルの来るのが遅れたので、サウルが自分で生贄を捧げるという罪を犯してしまった。それからそれから、数え上げたら、まだまだたくさんの事例が出て来るに違いない。
 新約聖書においても、ペテロが手紙の中で、主の来臨の約束を神様が遅らせておられるのではなく、すべての人が悔い改めるまで忍耐して待っておられるのだと言っているが、これもやはり遅れていると言わざるを得ない。何しろイエス様は、「あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」と言っておられたのに、あれから2000年以上たった今に至っても、まだその日が来ていないのだから。
 これらのことから、「聖書は正しくない」、あるいは「正確でない」と考えることもできるかも知れないが、もしかしたらそれが神様の当初からのご計画だったとも言えるのではないだろうか。そのおかげでアブラハムは信仰の父となり、またパウロが言っているように、イスラエル民族の救いが、全世界の救いにまで拡大されたとも言えるのだから。
 ようやく、わたしがこの「とりとめのない話」で言いたいことに近づいてきたのだが、それは、「どうして主の来臨が遅れているのか」ということである。私は、それはやはり、何かが悪かったために、神の当初のご計画が変更されてしまったのだと思うようになった。その「当初の計画」とは、上で述べた、主イエスの「あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」という約束である。
 それでは、何が悪かったのか。いろいろと考えてみるに、以下のことがその原因と思われるのである。
 まず、ペンテコステ以後に弟子たちが集団生活を始めたとき、その生活は今では考えられないようなものだった。彼らは、自分の持ち物を売って、集団の生活費に充てていたのであった。そんなことをしていたら、やがて財産が尽きてしまうことは火を見るよりも明らか明らかなので、それを彼らの軽率の成せる業だと思う人も多いかも知れないが、主イエスの上記の約束を本気で信じるならば、それにも一理あると言えるのではないだろうか。自分で生活費を稼ぐということには、そのための多くの時間が必要となるからだ。
 つまり、一つの仮説としては、彼らはあるいは、神の国の実現を第一優先事項と位置付けて、それ以外のことをすべてストップしても、目の前の宣教にひたすら邁進すべきだったのかも知れない。ところが、何かが原因で、彼らはふと我に帰り、「これではいけない。財産が尽きる前に、持続可能な組織運営にしなくては。」と考えるようになり、宣教にかける時間が段々と少なくなってしまったのかも知れない。あるいは、集団の中で、「あなたとあなたは、お金を稼ぐ人。私たちは、御言葉の御用に携わる人。」という任務分担ができて行ったのかも知れない。それらしいことは、使徒行伝の中に書かれているようなのだが。いずれにしても、何かが原因で、当初の計画が変更され、2000年以上も主の来臨が遅れて現在に至っていると考えられないだろうか。そして、やはりそれも神様の当初からのご計画の中にあるのかも知れない。
 しかし、こんなとりとめのない話の末に、私はやはり、神様に従うとは、どういうことかを、もう一度聖書からゼロベースで考えてみたいとおもったのである。ほんとうに、ほんとうに、とりとめのない話なのだが。

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