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2020/07/21

神の人の資格

 それにしても、現代のクリスチャンは、神の人になる資格、あるいは可能性を持っているのだろうか。
 もちろん持っている、と私は確信している。それは、キリストの尊い血がすでに流され、それにより私たちは、買い戻されたからである。これ以上の保証はない。そしてまた、それ以外に、何の可能性もあり得ないのである。
 それゆえに、すべてのクリスチャンは、神の人となる資格と可能性を持っている。しかし、現実を見ると、そのようになっていないことが一目で分かる。それはなぜなのか。これが大いなる疑問である。先の記事でも書いたように、神の恵みは、一人ひとりに与えられていると同時に、キリストの体としての教会を通して一人ひとりに与えられてくる。そのどこかの過程に問題があるのだろうか。
 一つ言えることは、私たちに自由意志が与えられており、神はそれを尊重される方だということである。つまり、私たち自身が神の人となる可能性を拒んでいるのかもしれない。
 最近私は、どのような人に対しても、清い心を持って接せられるようになることを願い求めた。そのとき神は、次の聖書の言葉を思い出させてくださった。つまり、「若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。」とある。私がそのことを心に刻み、努力し始めたとき、神は新しい思いを私の心に与えられた。神は、少しでも努力して、神に近づこうと思う者に、即座に助けを与えてくださるのである。私は、そのことを何度となく経験して来た。そして、神が示されたこととは、上記の聖句は、神へ近づくための入り口であるということである。つまり、この聖句を実行に移す者の心に、神はその人がどのような状態であったかを示される。つまり、問題は、彼が神から心を逸らせていたことなのである。つまり、彼の心の日常は、実際に気散じの連続であった。その只中にあるうちは、彼がその自分の意識状態に気づくことはない。しかし、彼が神の戒めに従い始めたとき、その気散じの状態に気づくのである。
 もし彼が、そのような気散じの日常から抜け出て、真に神に心を向け、日々その助けを願い求めつつ生きることを始めるなら、キリストの贖いと恵みは、即座に彼をして、神の子としての身分を得させ、神の語りかけは日常的なこととなるだろう。
 だから、私たちは、このことをまず第一に願い求めなければならない。私たちの心が日常的な気散じから解放され、ただ神にだけ集中し、キリストを通して、神から直接に、幻と戒め、恵みと裁きを受け取ることを。ああ神よ、そのようになりますように。

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