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2020/07/20

意図と構想

 また新しいカテゴリーを始めてしまったわけだが、その意図と構想を最初に書いておきたい。
 発端は、自分が今日まで育ててきた教会観の整理への欲求である。自分は、クリスチャンとして何のために生きているのか。ということをいつも考えているのだが、最近特に気になっている「ディスペンセーション主義」との関係と、今日の教会の弱体化を痛感する中で、やはりこれではいけないのではないかという考えになってきている。つまり、クリスチャンは、神を礼拝し、ただただ福音を宣べ伝えているだけでは、やはり不足なのではないか。ディスペンセーショナリストが言うように、教会は単に、ユダヤ人がキリストを拒んだために歴史に挿入されたものなのではなく、神の歴史の集大成であり、大目的なのではないかということなのである。それなら、これまでのイスラエルの歴史における神殿礼拝等の律法が教会の中に体現しているべきであり、また、預言者や王としての神の栄光も現代のクリスチャンの姿の中に燦然と輝いているべきだと思うのである。そして、それこそが、「神の人」としてのクリスチャンのあるべき姿と言えるのではないかと思ったのである。キリストは、「律法の一点一角も失われることはない」と言われれ、さらに「わたしは律法を完成させるために来た」と言われたのである。
 そのように、すべてがキリストにあって完成されるのだとすれば、今日の教会時代こそが、過去のイスラエルの時代を含めて、これまでの最高の時代であり、クリスチャンこそが、キリストが言われた通り、預言者以上の者であり、神の栄光を最大限に表す、「神の人」であるべきだと思うのである。そして、そうなるためにこそ「恵み」が必要なのであり、今は「恵みの時」であるゆえにそれが可能なのである。
 この観点に立つなら、原始キリスト教会における使徒たちやキリストご自身のように、私たちも超自然的な働きにより、強力な伝道を展開する力を持っているはずであり、もしそうなら、その力を使わないということは、キリストの語った譬えで言えば、与えられたタラントを地に埋めておいた僕になぞらえられるのではないだろうか。
 しかし、この説を展開するためには、やはり、厳密に聖書的な考察に依らなければならないと思う。そうでないと、ただ豪語するだけで、実際の力が生まれてこないし、方法論もないただの空論に終わってしまうから。それゆえ、このカテゴリーは、単なる議論や提案、仮説等々であってはならないと思う。それは、臨床に基づく、実践的な方法論にならなければならないと思うのだ。そういう意味で、このカテゴリーは、いくつかの危険性を内包していると思う。それらは、まず「妥協」であり、中途半端な論説に終始し、自然消滅してしまうという危険性である。また、「独断」であり、ただ自分だけ個人的に当てはまるような恵みや体験の羅列に終始してしまうことである。さらに、「教会や宗派、神学等の批判」であり、自己の論点の根拠の追及やその正当性の主張のために、他の批判に走るという危険性である。そのようにならないことを願うものである。
 そのように気を付けながらも、最終的に目指しているのは、これまでの、そして今後も得ていくであろうところの自分の知識と体験を最大限に動員することにより、万人(クリスチャンに限られるが)が、迷うことなく、楽に?、自然に「神の人」に成ることができる方法論を見つけることである。そして、それが可能であるというのが、今までのクリスチャン人生を経て、現在の私が持っている信仰の確信なのである。

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