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2020/07/25

神の怒り

 私たちが今日、殆ど神の声を聞くことがないのはなぜであろうか。なぜ神は、現代において沈黙なさっておられるのだろうか。ディスペンセーション主義の人は言うかも知れない、「それは、聖書が完成したので、私たちは聖書からすべてのことを受け取ることができるようになった。それゆえ、もはや神は、個々の事柄について語る必要はないのだ。」と。彼らは、神が語られるのは、私たちに何かを示したり命令したりするためだと思っているのだろう。でも神は、そのような一方的なお方ではないと私は信じている。神様は、私たちに何でも語りたいと思っていると。
 神は聖書の中で言っている、「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」と。パウロも言っている、『「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。』と。主イエスも言っている、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」と。創世記においても、「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。」とある。またイザヤ書にも、「論じ合おうではないか、と主は言われる。」とある。
 神様は、ご自身の考えを人間に語り、それに対する人間の考えを聞きたい、つまり会話や協議をしたいと考えておられるのだ。そんな神様なのに、なぜ今日、沈黙を守っておられるのだろうか。それは、神が怒っておられるからに違いない。
 人間的には、「怒る」か「喜ぶ」かどちらかにして欲しいと誰しも思うだろう。でも、神様は、そのようなお方ではない。例えば、あなたに子供がいたとする。その子があなたの誕生日に、とてもすてきなプレゼントをくれたとしよう。しかし、それが実は、お店から黙って持って来てしまったものだということが分かったらどうだろう。あなたの心には、実に複雑な感情が渦巻くのではないだろうか。今日、神様の心にも、そのような複雑な感情が渦巻いているのかも知れない。
 主イエス・キリストの十字架により、救いは完成した。誰であっても、例外なく、イエス・キリストを主と告白することにより、この救いに入ることができる。神の怒りは、すべて彼の上に注がれ、もはやあなたの罪は完全に贖われた。そして、神の愛は余すところなくあなたに注がれている。あなたが天国に行ける可能性は100%であり、もはやそれ以上何も付け加える必要はない。しかし、しかし・・・・・。
 もちろん神は、あなたを天国に入れてくれるだろう。でも、「喜んで」ではないかも知れない。主イエスの十字架は、「宥めの供え物」であることを忘れてはならない。それは、「神の怒り」からあなたを救ってくれるものなのである。それゆえ、神が100%あなたに心を許して、有頂天になって、あなたと楽しく話をするということではないのであり、そんな責任は、神にはないのである。
 つまり、主イエスの十字架は、「あなたが救われるため」であり、「あなたが神の友となる」ためではない。そして、神と語るためには、「神の友」となる必要があるのだと思う。
 神は、今日も怒っておられる。この世界の様々な出来事に。それが、終わりの日に余すところなく、この地上に注がれる。それだけでなく、いまこの時も、神は、怒り続けておられる。あなたが軽率な言葉を口に出しただけで。でも、その怒りは、あなたには注がれない。主イエスの十字架の影にあなたがいる限り。でも再び、神は、決してそのようなあなたと語りたいとは、思われないのである。
 それゆえ、神の声を聞きたいと思うなら、しなければならないことは、以下のことである。
 1.聖書をよく読み、神がどのようなときに怒られるかを知り、それを避けること。
 2.神と接するには、どのようにすべきかを律法から学ぶこと。
 3.アブラハム、モーセ、ダビデ、等々、神の友とされていた人から、神への接し方を学ぶこと。
 4.1日の100%を神に捧げ、何事においても神を第一にすること。
 5.思いを込め、精神を込めて神を愛し、常に神を賛美し、神の律法を守ること。
 6.主イエスが教えられたようにあなたの隣人を愛すること。
以上である。

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