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2020/07/21

何を祈るべきか。

 神の人になるために、何を祈るべきだろうか。「神様、私を神の人にしてください。」と祈るべきだろうか。しかし、祈りの目的は、「神の御心を知ること」である。それでは、「神様、私が神の人になるのは、あなたの御心でしょうか。」と祈るべきだろうか。否、それが神の御心であるというのがこのカテゴリーの確信である。
 それでは、どのように祈るべきだろうか。強いて言えば、「神様、私に何をお望みですか。」と祈るべきかも知れない。でも、私はそのようには祈らない。というのも、まず何をおいても、神を賛美すべきだと思うからだ。なぜなら、神はそのようにされるに相応しいお方だからである。そして、ひとしきり賛美した後で、何を祈るべきかを考える。通常、それは自然に与えられるように思う。例えば、友達から聞いた祈りの課題が思い出されることがあるかも知れない。
 でも、それについても、何から祈るのかに気を付けるべきだと思う。例えば、その友が受験勉強中だったとしよう。「神様、彼が目指す医科大学に合格しますように。」と祈るべきかも知れない。しかし、もしかすると彼の家庭は、それほど裕福ではないかも知れない。また、難病を抱えた家族がいたりするかも知れない。その他、彼がどんな環境にいるか、私には分からないのに、どうしたら彼のために最善の祈りができるだろうか。そこで、「神様、彼を祝福してください。」と祈るべきではないだろうか。そして、彼について私が知っている限りの状況を神にお話しすべきだろう。そして、神に対して、真剣に心を傾ける必要がある。そして、神が私に祈るべきことを語ってくださるように期待しよう。神は、必ず私に、祈るべきことを教えてくださる、というのが私の確信であり、もし私がそれをつかむことができるなら、そのとき、私は神の人に、本の少しだけ近づいたと言えるのかも知れない。

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ものごとの順番と限界

 普通のクリスチャンが「神の人」へと到達するのには、どのような道筋をとるのだろうか。
 まず第一に必要なのは、「祈り」だと思われる。そもそも「祈り」とは、何だろうか。それは、「神へのお願い」だろうか。私は、そうは思わない。それは、「神との会話」だと思う。それは、神という相手がある行為なのである。ここで「祈り」ということへ深入りするつもりはないのだが、要するに言いたいことは、まず最初に「神の御心を知る」ということが来るべきだと思うのだ。
 万一、神が、私が「神の人」になることを望んでいなかったら、それから先は、もう何もする必要はないだろう。だから、まず何をおいても、自分に対する神のご計画を知る必要がある。しかし、果たして神がそれを私に開示されるだろうか。それは、実際に祈ってみないと分からない。しかし、主イエス・キリストの恵みゆえに、神が私に、理由なく沈黙を続けられることは無いと確信する。実際、これまでも、神はいつでも必ず、私の心に答えを下さった。もっとも、涙を流して祈っても、神が沈黙されているように思えたことは確かにあった。でも、今から考えてみると、あのときも神は、やはり語っておられたのに、私は聞こうとしていなかったのだと思う。今では、そんな風に思われるのである。
 いずれにしても、まず最初に「祈り」が来る。そして、祈りとは神との会話である。そして、その中で私は神からある言葉を受け取ることになる。そして、それから後の私は、この「神から受け取った言葉」によって絶対的な制限を受けることになる。そこから、私は一歩も外へ出ることが許されない。
 だから、この「神との最初の会話」の範囲は、あまり狭くしない方が良いだろう。神が自由にあなたに語ることができるように、その会話の範囲は、考えられる限り広く設定するべきだろう。そして、神が語られることは、すべて時に適って美しいのである。あなたは、それに驚嘆し、神を賛美する。それ以外にはない。
 そして次に、神はあなたに、その語られた言葉を実行する力を下さる。あなたは、出て行ってそれを実行する。すると、そこに神が働いて下さる。以上が「ものごとの順序と限界」である。
 しかし、そんなにうまく行くのだろうか。私はいま、なぜ、このようなことを書いているのだろうか。それは、もちろん自分の経験(その一部は、このブログの「キリスト信仰の体験記」というカテゴリーで書いているが)から述べているのである。しかしもちろん、私とても、上記のような手順をとれば、神がいつも必ず働いてくださると言っているのではない。そこには実際、いろいろとリスクもある。まず第一に、私が神の言葉を聞き違えるという可能性もある。また、神の言葉を実行に移すときに、十分な確信がなく、心に迷いが出てしまうこともあるかもしれない。さらにまた、極端には、「失敗する」ということが、もしかしたら神のご計画の中にある可能性もゼロではないと思う。
 そこで、一番大切だと思われるのは、一度言葉を受け取ったと思ったら、確信を持って行動し、失敗を重ねる中で成長するということだと思う。それにより、私たちは、神の御心をより良く知ることができるようになると思えるのだ。もちろん、これらすべての基礎に、聖書を毎日読むということが前提としてあるのだが。

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神の人の資格

 それにしても、現代のクリスチャンは、神の人になる資格、あるいは可能性を持っているのだろうか。
 もちろん持っている、と私は確信している。それは、キリストの尊い血がすでに流され、それにより私たちは、買い戻されたからである。これ以上の保証はない。そしてまた、それ以外に、何の可能性もあり得ないのである。
 それゆえに、すべてのクリスチャンは、神の人となる資格と可能性を持っている。しかし、現実を見ると、そのようになっていないことが一目で分かる。それはなぜなのか。これが大いなる疑問である。先の記事でも書いたように、神の恵みは、一人ひとりに与えられていると同時に、キリストの体としての教会を通して一人ひとりに与えられてくる。そのどこかの過程に問題があるのだろうか。
 一つ言えることは、私たちに自由意志が与えられており、神はそれを尊重される方だということである。つまり、私たち自身が神の人となる可能性を拒んでいるのかもしれない。
 最近私は、どのような人に対しても、清い心を持って接せられるようになることを願い求めた。そのとき神は、次の聖書の言葉を思い出させてくださった。つまり、「若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。」とある。私がそのことを心に刻み、努力し始めたとき、神は新しい思いを私の心に与えられた。神は、少しでも努力して、神に近づこうと思う者に、即座に助けを与えてくださるのである。私は、そのことを何度となく経験して来た。そして、神が示されたこととは、上記の聖句は、神へ近づくための入り口であるということである。つまり、この聖句を実行に移す者の心に、神はその人がどのような状態であったかを示される。つまり、問題は、彼が神から心を逸らせていたことなのである。つまり、彼の心の日常は、実際に気散じの連続であった。その只中にあるうちは、彼がその自分の意識状態に気づくことはない。しかし、彼が神の戒めに従い始めたとき、その気散じの状態に気づくのである。
 もし彼が、そのような気散じの日常から抜け出て、真に神に心を向け、日々その助けを願い求めつつ生きることを始めるなら、キリストの贖いと恵みは、即座に彼をして、神の子としての身分を得させ、神の語りかけは日常的なこととなるだろう。
 だから、私たちは、このことをまず第一に願い求めなければならない。私たちの心が日常的な気散じから解放され、ただ神にだけ集中し、キリストを通して、神から直接に、幻と戒め、恵みと裁きを受け取ることを。ああ神よ、そのようになりますように。

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