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2019/05/13

神と似た者となるために

 主イエスは、「私を見た者は、父を見たのである。」と言われた。そして、クリスチャンにとって主イエスは、一つの究極的な目標であり、彼は私たちの霊的な長子でもある。私たちは、日々主の御姿に、聖霊によって変えられていくのであり、それが願いでもある。これらを言い換えると、私たちの究極目標は神であり、神に似る者とされることが私たちの願いだと言える。つまり、私たちが長子である主イエスを目指すのは、父なる神に似た者とされるためなのであり、そのために神は、御子を私たちに与えられたのである。

 エックハルトは語る、「神がなすわざのすべては、わたしたちが独り子となるためのものなのである」と。そして、「わたしたちが独り子となっているのを神が見るや、神は激しくわたしたちへと迫り来る。神がわたしたちに神の神性のすべての深淵と、神の有と本性との豊かさとを顕そうとして、あたかも神の神的有が神から砕けて、みずから無に帰そうとするかのように、急ぎ迫り来るのである」と。このことから、エックハルトがカリスマ信仰だったことが明確に分かる。彼は、神から来る電気のような力に触れられ、その場に倒れ伏したのに違いない。しかし彼はまた、その陶酔の中に決して留まってはいなかった。そして、さらに次の段階へと突き進み、「神は等しさそのものである」と語るのである。それゆえ神は、御子においてご自身を私たちに分け与えられた、いや、ご自身のすべてを私たちに与えられたのである。御子は神にとってすべてのすべてだからであり、そして、その御子と私たちが等しくなることを切に願っておられるのである。

 しかし、エックハルトはさらに先へ進みゆく。彼は、「神の愛に報いるために何をすべきか」と考えるのである。私たちをご自身と等しくするために、大きな犠牲を払われた神に報いることなど、とうてい出来そうにないのだが。というのも、私たちが譬えどんな努力をしたとしても、神はそのようなことを期待してはおられないはずである。なぜなら、神の願いが、ご自身を私たちに与え尽くすことならば、私たちがそれに対して、何かをすることは、その神の願いに抵抗することになるからである。それでは、どうすれば良いのか。エックハルトは、実に「私たちに何か他に成すべきことがあるとすれば、それは、私たちが神を捨て去ることだ」と語るのである。

 それは、いったいどういうことか。「神を捨て去る」とは、「神から何も望まない。受け取らない。」ということである。しかしそれは、「何も望まなかった。受け取らなかった。」ということではなく、「これ以上、何も望まない。これ以上、何も受け取らない。」ということであり、すでに成された神からの恵みを100パーセント肯定するものであり、これが究極的に、神の御姿に変えられることであり、神に似た者とされることなのである。

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