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2019/03/28

神の恩寵を受けるために

 もちろん人は、イエス・キリストを救い主と信じれば、誰でも天国へ入れるのであり、それ以上の恵みはない。しかし、私たちがこの世界で生きる上で、神の特別な守りと助けが必要となることがあり、それを受けられるかどうかは、また別問題なのである。つまり、例えそれを受けられなくても、私たちの救いには、何の問題もないのだから、それを受けられる場合と受けられない場合があり得るのであり、そのことをここで問題にしているのである。

 エックハルトは、それを「恩寵」と呼んでおり、神は御心のままにそれを特定の人に注がれるのである。しかし、「御心のままに」と言っても、それは神の気まぐれではなく、そこにある原則がある。神は、正しいお方だから、正しい判断によりそれを与えられるのであり、それゆえ、誤解を恐れずに言えば、それはある程度予測がつくものなのである。

 では、神はどのような人に恩寵を注がれるのかと言うと、一言で言えば、「御子に似ている人」である。神は、この世界を救うために御子を遣わされたのであり、また私たちに、すべてを御子を通して与えられるからである。そして、エックハルトによれば、私たちが御子に似るためには、完全に自己を放棄しなければならない。そのようにして、神が御子を通して与えてくださる恵みのみに自分をゆだねるのである。もし私たちが、何かこの世のものに心を引かれるなら、そのとき私たちは、神が御子を通して与えてくださっている恵みを受け損なうことになり、その部分だけ御子と似ない存在となる。逆に、私たちが自分のすべてを明け渡して、神の恵みを完全に受け取るなら、私たちは御子に似たものとされるのであり、神は、その御子に似た私たちに、完全に恩寵を注がれるのである。

 そのように、エックハルトによれば、私たちが神から恩寵を受けられるかどうかは、私たちの行う修行や修練、勉強等々の努力によるのではなく、自己をいかに放棄し、御子に似た者にされるかに掛かっているのである。つまり、私たちの側からの「神に気に入られるような努力」は、一切無駄であり、この世界には、神の気に入るものは、「御子」以外にはないということである。そして、神はこの「御子」に一切を与えられたのであり、私たちも神の愛される「御子」として、その一切を受け取れるのである。このように言い切るところがエックハルトの少し異端的と言われ得るところでもあるが、それは徹底した論法である。彼によれば、実に「聖霊」さえもこの「授け」の中で流れ出ることになるのである。つまり、従来の神学では、御子イエスが天に帰り、そこから地上にいる私たちへと聖霊を遣わされるのであったが、エックハルトは、「父が子を生むとき、子に一切を与えられるのであり、その授けの中で、聖霊が流れ出る」と言っている。つまり、聖霊がこの世界をゆらゆらと漂っておられ、あるときそれが私たちの心の中に入るのではなく、「私たちが子となるとき、神の恩寵が注ぎ込まれ、同時に聖霊が流れ出る」のである。それゆえ、「恩寵」は、「働き」のためであるが、その「働き」とは、「御子の働き」のことなのである。

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