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2019/03/15

『神をどのように知るべきか』ということについて

 エックハルトはこの説教で、おそらくこれまでの説教の中で、一番強い積極性について語っている。それは「神を知る」ということである。
 しかし、ここでまず問題なのは、「神を知る」ということが、積極性として取り扱えるものかどうか。つまりそれは、そもそもどの程度、自分の自由になるべきものなのだろうかということである。ごく一般的には「知る」ことは、受動的なことであり、「何かの拍子に、或る事に関する知識を得る」というようなことを「知る」と言っているようなのだからである。しかし、ここでエックハルトが言っていることは、むしろ「認識する」ということであり、そのために彼は、24人の師を登場させる。そして、彼らが真剣に「神とは何か」と言って議論した中から、いくつか取り上げて解説しているのである。しかもその解説において、彼らの説明を半否定的に取り上げることにより、それをさらに発展、展開しているのである。その意図は、人が「神を知る」ということの努力の限界を示すと共に、さらに「神を認識すること」への積極的なアプローチの道筋を示すためであると考えられ、私には、これこそが「カリスマ信仰」の真髄と思われるのである。
 ユダヤ教は、律法により、また正統主義や福音主義は、神学により神を認識しようとする。しかし、カリスマ信仰は、むしろ「神と生きる」ことにより神を認識しようとするのである。
 エックハルトは、神へのアプローチの道筋を4つの方向性から提示する。第一は、時間的な道であり、「今」という瞬間に集中するものである。「この今、その内で神は世界を創造したのであるが、それはわたしが現在話しをしているこの今と同じほど、この現在の時間に近いものであり、最後の審判の日も、昨日のようにこの今に近いものなのである」と彼は語る。神を認識するのは、過去の経験でも、未来の展望でもなく、この今を真剣に生きる中でしか得られないと彼は言うのである。
 第二は、概念的な道であり、「神を愛するあり方とは、あり方なきあり方である」と彼は言う。というのも「神は有をはるかに高く超えている」からであり、そのような否定論的な方法によらずには、神を認識できないということである。
 第三は、倫理的な道であり、「神は、善でもなく、良きものでもない」とエックハルトは言う。より良いものをと捜し求めても、神にまで辿り着くことはできない。「神は、善をもはるかに超えている」からである。
 第四は、関係としての道であり、私たち人間が神から何を受取ることができるかということである。彼は、「神は何をおいても自分自身を与える」という。つまり、私たちが神から受取れる具体的なものは何もなく、受取ることができるものがあるとすれば、それは神ご自身だけだということである。
 以上の結論として、エックハルトによれば、神は時間的にも概念的にも倫理的にも関係的にも、私たちから完全に隔てられており、人間には認識し得ない対象であり、私たちの方から神に近づく方法は、皆無なのである。それでは彼は私たちに、神を知るために、どのような方法を提案するのであろうか。彼は「私たちは、神の譬え言葉でなければならない」という。それは、どういう意味であろうか。それは実に、「神の真似をすること」なのである。
 しかし、知ることのできない対象を、いったいどのようにして真似ることができるのであろうか。それは、彼独特の方法論なのであるが、私たちが神から戴いた賜物によってである。彼は「私たちは、神をどのように愛したら良いのだろうか」と問う。そして、「それは、いつも愛しているように愛するだけである」と言うのである。つまり、神を愛する決まった方法など無いと彼は言うのである。つまり、神を知る方法を記述した途端に、それは嘘になってしまう。私たちは、神を「記述しない方法」で知らなければならず、神を「思い浮かべない方法」で愛さなければならないのである。そんなことができるのだろうか。無論できるのである。実際、私たちの子どもは、それをやっている。彼らは、誰からも教わらずに、自分の親を愛することができるし、自分の親を知ることができるのである。そしてそれは、究極的には、私たちの「真似をする」ことによるのである。
 私たちが、主イエスの言われるように、神に対して「子どものように」なることができるなら、そして、それは主イエスが既に私たちに対して成し遂げてくださったことなのではあるが、私たちは、完全な方法で神を知り、愛することができるのである。

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