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2019/03/10

『神の前にどのように死と向き合うか』ということについて

 これまで、エックハルトのドイツ語説教から、神の前における「ある(存在する)」、「立つ(留まる)」、「生きる(活動する)」という3つの積極性について考察してきた。これらは、順を追って段々と勢いが強められてきており、「生きる」ということに至っては、最大の積極性を持っているように思われる。そして、この4つ目の説教が「死(終わり)」について語っているのは、また大きな意味を持っているように思えるのである。エックハルトはここで、「死」というものの意味について、4つ挙げている。そしてそれらは、この「死」というものがまた、「生」以上に積極的なものであり得るということを納得させるような内容である。
 まず第一にそれは「人生の終わり」ということである。
 神は人間に有限の人生を与えられた。そして、その一定期間の従順の報酬として、その後に永遠の命を与えられるのである。ただし、この場合の従順とは、律法を守ることではなく、救い主を信じ続けることである。
 また第二には「生命の終焉」ということである。
 神が人生を有限にされたことは、この世の命が「死すべきもの」であり、それを失うことを恐れる必要はないということを意味している。それゆえに私たちは、究極的にはこの世の恐れから解放されているのである。
 第三には、それが私たちにとって「究極のあり方」であるということである。
 キリスト信仰のあるべき方向性は、「この世を軽んじることにより、神を重んじる」ということであり、この世と神の両方を同時に愛することはできない。神を愛するためには、この世を捨てるしかないのである。しかし、この世は死すべきものであり、そのように価値のないものであるなら、なぜそれが人をかくまで夢中にするのであろうか。それは、人の心が罪に染まっているために、彼が神に少しも心を向けることがないからである。しかし、もし彼が神に向き直るなら、そのときに覆いは取り除かれるのである。
 そして第四には、「新しい始まり」ということである。
 「死はつまり彼らにひとつの有を与えるのである」とエックハルトは語る。そしてまた、「神の最も固有な本質は有である」と言う。つまり、彼らがこの世に死に、神にのみ望みを置くようになったとき、彼らは神の固有の性質であるところの「有」を受け取るのであり、それが永遠の命なのである。
 この命を受けるために、神に従うことを妨げるものある。エックハルトによれば、その第一は「時間性」である。つまり、私たちが目指すべきものは、「向上する信仰」ではなく、「不動の信仰」なのである。第二には、「対立性」である。「正義と悪」、「律法と罪」、「真と偽」等々、対立する構図からは、真理はもたらされない。大切なのは「純粋性」であり、「追求」ではなく「完全なる受容」である。
 つまり、神と私たちの接点は、「死」に象徴されるように不連続なものであり、そこを通ってしか神の元へ行くことはできないということである。しかしそれは、単なる概念的なものではなく、神が主イエスにより、私たちに与えられた賜物であり、実際に私たちはそれをカリスマとして持っているのである。

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