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2018/10/16

三位一体は、信じるものではない。

 『三位一体の教理内容は、人間の思考を遥かに超えているので、人間はそれを理解することはできない。それは、信じるべきものである。』という言い回しを良く耳にする。みんなが良く知っている福音伝道者でさえもそのように吹聴しているのである。しかし、私はそれは間違えだと思っている。
 無論、三位一体という言葉は聖書に出てこない。しかし、それは聖書の随所にある神に関する記述から、そのように認識されるということは、私も認める。そして、主に異端に対処するためにこの教理がまとめられたということも聞いている。そこで、これらから帰結してくることとして、「三位一体は、人間が考えたものだ」ということである。その大元は、聖書にあるのだが、それら分散したものを抽出してきて、「三位一体」という一本の教理にまとめ上げるということは、人間が考案したのであり、聖書の中には、そのような意図はなかったかも知れない。あるいは、あったかも知れないのだが、それを証明することはできない。そこで、やはり人間が考えたものと言えるだろう。
 それでは次に、この人間が考え出した「三位一体」という教理は、信じるためのものだろうか。否、信じられるべきものは、御言葉以外にはない。あってはならないのである。もしあったら、そのようなものが次から次と考案される余地が出てきて、収拾がつかなくなる。そこで、聖書の正典というものが定められたのだから。
 そこで、「三位一体」は、信じるべきものではない。それでは、それは、どういうものなのか。それは、「考えて理解すべきもの」である。しかし、人間の思考を遥かに超えているものをどうやって考えるのか。実は、ここに悪魔の欺きがあるのである。つまり、「三位一体は、人間の思考を超えてはいない」のである。だって、それは、人間が考え出したものだからである。人間が考え出したものが、人間の思考を遥かに超えているはずはない。そのように悪魔が刷り込んでしまったのである。簡単に言えば、「神とは、父なる神と子なる神、聖霊なる神の合わさったもの」と考えれば良い。あるいは、「混ざり合った」と言えばもっと分かりやすいだろうか。つまり、3つ合わせて1つの神なのである。なぜなら、もし、例えば「子なる神」がおられなければ、もはや聖書の神ではない。「父」についても「聖霊」についても同様である。そして、神は唯一である。三位がそろって初めて一つの神だからである。こんな簡単なことが、どうして難解なのだろうか。聖書の神は、そういう神なのである。
 それでは最後に、そのような単純明快なことが、どうして「難解」と思われるようになったのか。「難解だ」という人は、3=1という公式ばかりに着目している。しかし、上でも述べたように、実は、「神=3」なのである。この「3=1」という考えの中に、すでに三位一体を否定する考えがあったのである。それは、正に悪魔が考え出したことである。極めて美しく、有難い教理を「不合理で無味乾燥で難解なもの」としてしまうためである。そして、この教理を「難解」とする人は、神との人格的な関係を持つことができなくされてしまうのである。「3=1」を理解しようとしたら、そうなってしまうのである。だから、「理解せずに、床の間に飾っとこう」ということになる。そして、それは神との人格的な関係をも棚上げにすることに他ならない。理解しないのだから、人格的な関係など持てる吉もないのである。
 この論述が「とりとめのない話」と思われる方は、コメントしていただきたい。それから、「私も賛成」と言われる方もお願いしたい。これは、私にとって、大きなことである。それは、終わりの日に開かれる大きな真理なのかも知れないとさえ思っているからである。

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