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2018/09/25

神の人となるために

 「神の人」と言えば、まず想い出すのは、預言者エリアである。彼は、天から火を降したり、雨を止めたりするようなこと、つまり神にしか行えないようなことを行うことができた。そして、主イエスもそうであった。彼は、嵐を沈めたり、パンを増やしたり、悪霊を追い出したり、病を治したりした。そこで、「神の人となる」と言うと、何か大それたことのように思われるかもしれない。その通り、「大それたこと」である。しかし、このことは、私がずっと神に願い求めてきたことなのである。つまり、主イエスに似た者とされることである。
 そして、私が神に願い求めてきたこととは、「誰でも神の人になれる、そんな方法を教えてください」ということであった。そんな方法があるのだろうか。しかし考えてみて欲しい。主イエスは何と言われたのか。「信じる者には、このような徴が伴う」と言われたのである。それは正に、「誰でも神の人になれる」ということでなくして、何であろう。
 しからば、なぜそれが今日、困難なことのように思えるのだろうか。それは、たぶん、主イエスが地上におられたときと現在では、何か状況が変わってしまったことによるのである。それは、何だろうか。「緊張感」だろうか。確かに、あの時は、教会が生まれようとしていたときであり、神の力の特別な傾注が必要だったのかもしれない。しかし、今は終わりの時代である。その終わりの時代に神は、「私の霊をすべての人に注ぐ」と言われているのである。
 そんな風にして、いろいろ考えていて、一つのことに思い当たった。それは、もしかしたら、私たちに問題があるのではないかということである。というのも、神の側からの恵みは、すでにすべて与えられたと考えられる。主イエスは、十字架上で、「完了した」と言われた。それゆえ、これ以上の恵みが無いのだとすれば、原因は私たちの方にあると考えられるのである。
 それでは、その原因、つまり、私たちが神の人になるのを阻止している原因とは、何なのか。それは、私たちがそのような状態になっていないということである。それでは、「そのような状態」とは何か。それは、「神から恵みを受けるに相応しい状態」ということである。そして、再びそれは、「神がそのように意図された状態」ということである。
 神は、すべての恵みを「御子イエス」により、彼を通して私たちに与えられるのである。そのためには、私たちは、御子に似た者となっている必要がある。そして再び、それは、難しいことではなく、そのようになるための道、方法が完全に与えられているということなのである。
 まず、私たちにできることとして、毎日聖書を読み、み言葉を心に蓄えることである。次に、毎朝起きたら、まず神を礼拝することである。なぜなら、そのような人こそが、神の恵みを受けるに相応しい人であり、主イエスご自身がそのように生きられたと思われるからである。それから、言葉を軽率に使わないこと。主イエスの語った言葉は、すべて成就したのであり、神の人にとって、言葉とはそのようなものだからである。それから、神に完全に信頼を置くこと、貧しい人、苦難の中にある人を思いやり、彼らのために祈ること。等々である。
 しかし、問題は、これらのことを一日どれだけの時間、どのようにミックスして行えば良いのか。また、時間的な配分や目的別の実施方法等々であり、つまり、神が最初にどのように意図され、今日においてもどのように意図されているのかということである。これらを、聖書のみ言葉に即して、戦略的に配合、実施しなければならない。そしてそれは、難しいことではなく、誰にでもできることであるはずなのである。ただ、歴史の中で、それがどのようにしてだか分からないが、困難な道に変質されてしまった。この道における恵みと励ましに関する洞察が掻き消され、変わりに賜物への根拠のない願望だけが強調されるようになってしまった。それはきっと悪魔の仕業に違いない。
 実際、まったく、とりとめのない話なのだが。。。

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