« 神の怒り | トップページ

2018/09/05

三位一体について

 例えば、主イエスが教えてくださった「主の祈り」において、私たちが「天の父」と呼びかけるとき、神は私たちの父でなければならない。そうでなければ、私たちは、この祈りを本心から祈ることはできず、単に口真似をしているだけということになろう。私たちは、実に「神の子」でなければならないのである。聖ヨハネが言っているように、「わたしたちは、今既に神の子」なのであり、それは、主イエスの十字架の贖いにより、そのようにされたのである。つまり、主イエスが天に帰られた今となっては、私たちが主イエスの身代わりなのである。その主イエスは、聖霊の力により、病人を癒し、悪霊を追い出し、権威ある言葉を語られた。そして、この地上で私たちを神の子とし、天の神を「アバ父」と呼ばせるのも、私たちの内に宿られる聖霊なのである。
 それゆえ、この一連の恵みと召しを神から受け取るために、三位一体は不可欠であり、もしこの教理が真理でなければ、私たちには、何の望みも無いことになる。もし私たちが、キリストを信じて、単なる教会生活を送るだけなら、私たちは、この世界でもっとも惨めなものと言えるだろう。しかし、神のご計画は、私たちがこの「父と子と聖霊」の恵みに実際に与ることだったのである。それは、まさに私たちが主イエスの姿に変えられることであり、三位一体が私たち一人一人の中に具体的に実現することなのである。
 しからば、この最重要な教理であるところの三位一体とは、どのようなものだろうか。
 まず、天におられるのは、父なる神、つまりすべてを生み出された方、この世界を造られた創造主である。
 つぎに、御子は、神の言葉であり、この世界の雛形であり、創造主はこれによりこの世界のすべてを造ろうとされた。
 最後に聖霊は、子なる身分を授けるために神が遣わされたご自身の霊である。
 そえゆえ、主イエスは、ご自身では何も力を持たない状態でこの世界へ来られたのであった。彼は、単なる雛形であり、世界を生み出す力を持たないのだが、それでも彼の内には、この世界のすべてが予め在ったのであり、付け加えられるべき何ものもない。もはや何も生み出す必要がないのである。彼は正に、「わたしは有る」というお方なのである。そして、神の言葉である御子に従って、この世界を在らしめたのが聖霊である。聖霊は、御子の内にあるように、この世界のすべてを創造し、父なる神の「光あれ」との言葉で光を創造し、創世記にあるすべての創造の業を行われた。そして、それらすべてを行うことを決められたのが創造主で父なる神である。この創造主なる神は、天におられる私たちの父であり、すべてを動かしておられるので、私たちは、この父に祈り、お願いをするのである。
 つまり、ひとことで言うと、「御子:概念」、「父:意思」、「聖霊:力」、であり、これらが、一人の神に備わった御性質ということになる。
 しかし、三位一体の教理から帰結する、次のことこそ、もっとも重要なことである。それは、「主イエスと私たちの違い」ということである。つまり、上記のことから言えることは、主イエスと私たちの違いは、中身の問題であり、「主イエス:神の言葉」、「私たち:被造物」ということになる。そして、驚くべきことに、主イエスと私たちの違いは、それだけなのである。もちろん「それだけ」と言っても、これは天と地の違いであり、限りなく異なっており、似ても似つかないものである。しかし、それでも、ある一点において、主イエスと私たちは、まったく等しいのである。それは、「この地上で、神の働きをすること」においてである。私たちは、主イエスとまったく同じ体を持ち、まったく同じ聖霊を与えられているからである。そして、このことを人に悟らせまいとして、悪魔は、昔々に三位一体を難解な教理に仕立て上げてしまったに違いないのである。まったく、とりとめのない話なのかも知れないのだが。

|

« 神の怒り | トップページ

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/59973/67134082

この記事へのトラックバック一覧です: 三位一体について:

« 神の怒り | トップページ