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2018/08/29

神の怒り

 「キリスト教の神は、愛の神であり、天の父は、私たちをねたむほどに愛しておられる。」とは、信仰生活において良く聞く話である。しかし、新約聖書においても、「神の怒り」という言葉は、何度も出てくる。例えば、
 『御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。』 ヨハネ3:35
 『わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。』 ローマ5:9
 等々である。つまり、神様は、新約の時代になったからと言って、もはや怒らないのではなく、今も昔とまったく同じように怒っておられるのであり、その怒りから私たちを救ってくれるのがキリストなのである。
 旧約と新約の違いは、この「キリストが有るか、無いか」ということであり、その他は、まったく変わらないのである。キリストという覆いが取り除けられた私たちが神のみ前に立ったら、それこそ大変なことになり、私たちは、一瞬にして、死の裁きを受けてしまうだろう。
 しかし、旧約の時代においては、罪の赦しのための贖いの儀式があった。今でもそれを行えば、私たちの犯す罪は、赦されるのであろうか。多分そうに違いない。しかしそれには、レビ記に書いてあるような、もろもろの前提条件を整えておく必要があるだろう。そして、今日においては、それはとても不可能であろう。だからこそキリストという贖いが必要なのであり、さらにそれは、単に旧約の「罪の贖いの儀式」の代わりではなく、ただ一度捧げられた、永遠なる完全な贖いなのである。
 実は、これからが本当に言いたいことなのだが、つまり、旧約の律法は、現在も生きていて有効であるということである。主イエスは、『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。』と言われた。この「完成」とは、どういう意味であろうか。それは、肉から心への適用により、律法本来の目的が完遂されるということである。
 主イエスは、『あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。』と言われる。旧約では、未だ罪とされないことが、新約ではすでに罪を犯したとされるのであり、新約の律法は旧約より厳しいのである。それが心に適用されるからである。
 そこで、良く考えていただきたい。今日においては、私たちの心こそが聖霊の住まいされる神の宮であるということを。その心の宮に、思い煩いや憎しみ、恐れ等々が一瞬でも生じたら、それがどれだけ、神の心を悲しませ、神の怒りを招くのかということをである。神殿とは、旧約において、神に犠牲を捧げ、神を賛美し、礼拝する場所であり、ましてその前で不平不満を言う場所ではない。そこには、思い煩いや恐れ、憎しみ等々が微塵もあってはならないのである。しかし、実際問題として、そのようなことがあるとすれば、まさにそれが、現代を生きる私たちが、神の栄光をめったに見られないことの理由なのである。
 つまり、キリストの贖いは、100%働いている。そしてキリストは、パウロが言うように、私たちを垂れ幕の後ろの至聖所まで導きいれ、神の圧倒的な臨在の中に入れる道を開いてくださった。
 『それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。』 ヘブル10:19~20
 しかし、私たちの心の神殿に、まだ恐れや不満が少しでも残っているような状態ならば、それにより神の怒りが臨み、むろんその怒りからは、キリストの贖いにより、100%守られるのだが、しかし、まさにそのことのゆえに、神のご臨在が私たちを通して輝き出るということはないのである。
 そこで、もし私たちが、自分の心を神の宮と宣言し、そのように信じ、そこに聖霊をお招きし、そこを旧約聖書の神殿のようにして、神を崇め、褒め称え、神がこれから行おうとしておられるご計画の賢さ、すばらしさを期待し、賞賛し、神を祝福するなら、神の臨在の雲が私たちの心の宮を包み、そのご栄光が私たちの人生に、目に見える形で現れることが期待できることを確信するものである。
 この話が、これを読む方にとって、とりとめのないものでないことを祈るしかないのだが。

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