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2018/07/31

人は、どう生きるべきか

 もうかなり以前のことだが、朝会社へ行くために玄関を出るとき、左右のどちらの足から踏み出そうかと本気で考えていたことがある。それがもし、神様の意図されていることだと確認できることなら、喜んでそれをしようと思っていた。こんなことを言うと、とても愚かに思われるかも知れない。しかし、愚かか賢いかということは、そのころの私にとってどうでも良いことだった。そして今もそうなのである。
 もう一つ前置きの話をしよう。それは、ある教団の全体集会のときだったのだが、講壇に立っている牧師が、自分の教会のある役員のことを持ち出して、講壇の上から批判したのである。それは、その役員の次のような言葉に対するものであった。彼は、「私は、信仰に立つ限り、すべての信徒は、同じ考え、生き方をするようになると思います。」と語ったというのであり、それを取り上げて、彼の考えが、非常に愚かであるかのように語ったのである。
 上の2つの前置きによって私が言いたいことは、つまり、私のような人間は、ある牧師にとっては、我慢がならない信徒であり、そのような考えは、徹底的に批判され、誤りと断定されなければ気がすまないようなものだということである。なぜか、それは、もし仮に、私のような考え方が正しいとすれば、かの牧師も含めたすべての人の生き方が少なからず、本質的な影響を受けざるを得ないということなのである。
 さらに私が言いたいことは、驚くべきことに、上記のように考えない牧師も存在するらしいということである。それが事実だとすれば、神の言葉を取り次ぐ牧師という人たちの中に、大きく2つの分派が存在するらしいということである。つまり、すべての人が信仰において、同じ考え、同じ生き方をすべきと考える人とそうでない人である。
 と、実は、ここまでが話の前置きである。私がかの牧師の話をしたのは、彼を批判するためではなく、人間は、牧師という崇高な人々も含めて、まったく異なる2つの考え方に分かれざるを得ないということが言いたかったのである。
 さあ、これからが本論なのだが、私は、かの役員と同じ考えに立つ。つまり、朝玄関をどちらの足から踏み出した方が神の御心に適っているかということがはっきりしたなら、それからの人生は、その方の足から玄関を出る生活を続けていくだろう。そして、それは、私の喜びとなるだろう。私の確信は、次のことである。つまり、この短い人生の中に、誰にも侵害されないものを自分だけのために、いつも残しておきたいと思うことの代わりに、すべてを神に捧げ、どんな機会にも、神に喜ばれることだけを求め、自分さえも神の御心のままに果てしなく変わって行きたいと願う人は、きっと私と同じように考えるだろうということである。
 もし、これを読んでいるあなたも、賛同してくださるならば、朝目を覚ましたときに、まず願うことは、そのときにまず読むべき御言葉があれば、それを教えて欲しいということに違いない。というのは、私の一日がそのときから始まるのであり、私はそのとき、まだ次に何をすべきかを知らないからである。そして、それを教えてくれるような御言葉を願い求めるのである。それは、いつも同じ御言葉かもしれないし、そうでないかも知れない。いずれにしても、それは、すべてを考える上で、もっとも大元となる御言葉であるべきだろう。その目的は、私がイエス・キリストによって、すでに神の子とされていることの確認に導くものなのだろうか。それとも、全能の神が天地を創造し、今も統治しておられることを告白することなのだろうか。その他、どのような目的のための御言葉が必要で、それはいったい聖書のどこなのか。そういうことがすべて整わなければ、私は、かの役員が言っていたように、同じ考え、同じ生き方を実践することが難しいとも思われるだが、それでも、それを追い求めなければならないと思うのである。それが、心の祭壇を築くということではないだろうか。実際、とりとめもない話なのだが。

 「私は決して、わが家の天幕にはいりません。私のために備えられた寝床にも上がりません。私の目に眠りを与えません。私のまぶたにまどろみをも。私が主のために、一つの場所を見いだし、ヤコブの全能者のために、御住まいを見いだすまでは。」 詩篇 132:3~5

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