« 2018年5月7日 | トップページ | 2018年7月31日 »

2018/05/24

パカッ聖書

 これは、私の発明である。
 どういうのかと言うと、つまり、聖書をパカっと2つに割って、それぞれに名前をつけるということである。それでは、やってみよう。
 聖書をパカっと割ると、まず旧約聖書、そして新約聖書となると思うだろう。その通りである。しかし、それだけでは終わらない。それぞれに名前をつけなければならないのだ。そこで、旧約聖書に、「神の民の出現」と付け、新約聖書には、「あなたが神の民です」と付けるのは、何だか我ながら、「やったー」と言えるようなことに思える。
 今度は、旧約聖書をパカっと割ると、第一にモーセ五書、そして、それ以外となる。そしてモーセ五書には、「神の民の形成」、それ以外には、「神の民への約束」と付ける。モーセ五書をパカっと割ると、創世記とそれ以外となり、創世記は、「神の民の誕生」、それ以外は、「神の民の歴史」となる。モーセ五書に対する「それ以外」をパカっと割ると、ヨシュア記とそれ以外となる。そして、ヨシュア記には、「約束の実現」、それ以外には、「契約の破綻」と付ける。
 モーセ五書の創世記以外をパカっと割ると、出エジプト記とそれ以外となる。この場合、出エジプト記には、「奴隷からの解放」、それ以外には「神との契約」と付ける。この「それ以外」をパカっと割ると、レビ記とそれ以外となる。そしてレビ記は、「契約の内容」、それ以外は、「契約の施行」となる。この「それ以外」をパカっと割ると、民数記と申命記となり、民数記は、「契約の締結」、申命記は、「契約の警告」とする。
 まあ、こんな風に各書に辿り着くまで、次々にパカっと割って、それぞれに名前を付けて行くのである。
 これのどういうところが良いかというと、聖書を自分なりに理解し、頭の中に収めることができることである。そして、全体的な部分から個々の書へ降りて行くときに、ぱかっと2つに割って理解することにより、それまでの上位の分割と命名の妥当性が再度問い直されて、より全体の理解が深まるのである。
 こういう訓練をすることにより、聖書のどの書を読むにしても、ただ漫然と読み進むのではなく、自分が聖書全体の今どの部分を読んでいるのであり、それを全体の中でどのように受け取るべきか、また、どの部分をどのように味わうべきかを更に考えることができるようになるだろう。
 そして、聖書がそれを読む人にとって、本当の宝物となることを期待するものである。多少とりとめのない話かもしれないのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年5月7日 | トップページ | 2018年7月31日 »