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2018/05/04

心の祭壇を築くために

 「心の祭壇」ということが時々言われることがある。それは、信仰の実践的な教えであり、毎日の霊的な戦いに必要なものだと思う。というのも、生来の私たちは、罪の支配の中にあるからである。「キリストの贖いが私たちを罪から解放した」と言われていながら、私たちが日常的に罪を犯すことがあるなら、その原因の一つとして、私たちが「肉なる人」に従って歩んでいることがあると思う。
 つまり、私たちの内には、「肉なる人」が住んでおり、その影響は、キリストを信じてからも衰えずにあるということである。しかし、キリストの贖いを受けた者には、聖霊が与えられ、新しい心が与えられる。「第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る」と言われている通りである。もし私たちが、この「第二の人」に従って歩むならば、私たちはもはや罪を犯すことはないだろう。そこで問題は、私たちがいかにしてこの「第二の人」によって日常を生きるようになれるかということであり、それが「心に祭壇を築く」ということだと思うのである。
 それにはまず、「第一の人」と「第二の人」が自分の中で区別されなければならない。すなわち、自分がどんなときに「第一の人」に従って歩んでおり、またどんなときに「第二の人」に従って歩んでいるのかをきちんと認識できるようにならなければならない。
 まず、明確なことから始めるべきであろう。それは、「神を賛美する」、「神を礼拝する」ということである。このことをしているのは、明らかに「第二の人」である。それに対して、「人のことを悪く思ったり」、「心配したり」、「恐れたり」、「不平を言ったり」、「憎んだり」、そういうことをするのは、「第一の人」である。この両極端から始めて、段々と曖昧な両者の境界線の部分を判別できるようになることが必要だと思う。そこあるものは、「~のために」とか、「~だから」とか「~しかないから」とか、様々な理由付けであり、それらがきちんと判断できるようになれば、心の祭壇が堅固なものになると思うのであり、それには、み言葉と祈りによる吟味が必要となる。
 そして、そのような内的な努力と並行して、少し外的とも言える努力も役に立つだろう。それは、「私は、天から来た人を生きている」と宣言することであり、「第一の生来の人とは、もはや関係がない」と宣言することである。そのようにして、内なる人が洗練されてくることにより、その内面に相応しくないもの、つまり、俗的な心、呪い、肉体的な病気、精神病等もその人から離れ去ることが期待できると思う。
 そのようにして、内実共に「天から来た第二の人」によって生きる存在に自分がなっていくことにより、これまでとは比較にならないほどの、主の働きをすることができるようになると思われるのである。
 次に期待できるものは、幻である。これは、上記のようにその人の内面が洗練され、「天から来た第二の人」によって日常的に生きるようになったとき、神がその人に幻を与え、それが実現を始めることが期待できるのである。それにより、その人の人生は、もはや地から生まれた生来の性質を超え、その人の人生のすべてが文字通り「天から来た第二の人生」となり得るのである。

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