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2018/04/25

「神の前にどのように生きるべきか」ということについて

説教三:『なぜという問のない生き方について』

 「人は、なぜ生きるのか」。人々は、長い歴史に渡り、この問いを発し続けてきた。そして、それに答えを与えた人はまだいない。それも無理はない、実はそれには答えが無いからである。この「生きる」という行為は、先の2つのドイツ語説教において取り扱われていた積極性よりも、さらに高いレベルの積極性である。そして、「何のために」と問う人は、「自分が途上にいる」ことを言い表している。ところがエックハルトは、「人間としてのキリストが所有しているすべての善は、この本性においてわたしのものである」と語る。つまり、私たちは、すでに途上にはいないのである。
 エックハルトが言うように、神が私たちにすでにすべてを与えておられるのなら、もはや私たちが自分のために新たに求めるものは何も無い。そこで、神に問うことは、「今私は、ここで何をすべきでしょうか」という問いに他ならない。そしてこれは、「目的の定まらない問い」である。ただ一つ目的があるとすれば、それは、「神の栄光を現す」ことである。これがすなわち、エックハルトが言うところの「なぜという問いのない生き方」なのである。
 エックハルトによれば、この問いを発する者には、何の気力も意思も無いのではなく、ある一つの「自由で、高貴な意思」を持つ。彼はそれを、「この一なるものにおいて、父はその子を最内奥の泉に生む。そこに聖霊が咲き出で、そこにひとつの意思が神の内に涌き出でる。この意思は、魂に属するものである」と言い表す。その人が、この意思を持ち続ける限り、彼は神の前で、「なぜという問いのない人生」を生きるのである。

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