« 2018年4月21日 | トップページ | 2018年4月25日 »

2018/04/22

『神の前にどのように立っているべきか』ということについて

説教二:『魂の内にあるひとつの力について』

 エックハルトは、この2つ目のドイツ語説教で、1つ目の説教よりもさらに積極的な信仰者の姿勢について語っている。それを彼は、2つの比喩を用いて提示するのであるが、その一つ目は、「主イエスを心に受け入れる魂は、『処女』のようでなければならない」というものである。これは、いかなる先入観も偏見もなく、神を受け入れるということであり、その意味で努力が必要であり、従ってそれは一つの「積極性」であり、しかもそれは、1つ目の説教で述べられた「無知」と「自我性」からの「自由」とか「解放」ということに比べて、「受け入れる」という、より高いレベルの積極性なのである。
 そして彼は、この説教における2つ目の比喩で、さらに高い積極性について提示する。それは、「人が実り豊かになるためには、『女』であることがどうしても必要だ」というものである。この「実り豊か」とは、「生む」ということであり、それは「創造」を意味している。しかし、どのようにして魂が、「無からの創造」を成し得ようか。それは本来、神のみが成せる業ではないのだろうか。しかしエックハルトは、「この女たちのもたらす実は多く、神自身に劣らないほど、その実りもまた大きい」と言い、さらに「父がその永遠なる言を生む、実にそれと同じ根底より、彼女たちは実り豊かに父と共に生むものとなるのである」とさえ言っている。
 このような表現を捉えて、エックハルトを異端視する人もいるであろうし、事実彼は、それにより異端宣告を受けてしまったのであった。しかし、彼がこの領域に踏み込んでまで語りたかった真理がそこに確かにあるのであり、私はそれをここで提示したいのである。
 それには、まずこの世界の所謂女性の持つ性質を偏見なく認識する必要がある。彼女たちは、無論子供を生む。しかし、そのことをして「無からの創造であり、神の領域を犯している」と言う人はいない。それは、神から女に与えられた「一つの力」なのである。それと同じように、エックハルトが「魂が生む」というとき、それは、「神から与えられた力により生む」ということを言っているのである。そして、神は魂に「生む能力」を与えられ、「ご自身と共に生む」ことを切に願っておられるというのがエックハルトの主張なのである。つまり彼は、「あなたは神から与えられたあなたの賜物を最大限に発揮して、神の業を行わなければならない。そうでなければ、神の恩に報いることはできない。」と言っているのである。
 この場合、そのように生きようとする信仰者には、神を冒涜してしまう危険性が伴うのではないかと心配になる。というのも、エックハルトが主張する信仰者の賜物は、あまりにも神の御性質に切迫したものだからである。そして、そのような業を彼が成し得たのは、よもや彼自身の功績ではないにしても、神が特別に彼に恩寵を注ぎ、彼の内に臨在したからに他ならない。つまり、彼は神から選ばれた器だったのである。しかし、それも当たらない。エックハルトによれば、人の心には、「魂の内の城」という部分があり、そこへはどのような存在も入ることはできない。神は無論全能なので、彼の中に住まいすることができる。しかし、その際には、神の痕跡を後に残すような状態で彼の内に宿ることは決してできない。神ご自身がそのように定められたのである。従って、彼が何か偉大な業を成したとするならば、それは彼が神からいただいた力により成すことができたのであり、その際に神が彼に特別に手を貸すということは決してなかったということなのである。つまり、何人も神から特別な取り扱いを受けることはないということである。
 以上のことを総合して言うと、信仰者が神の業を成すことを神は望んでおり、それができるように人間を創造された。だから私たちは、自分の体を持って神の御性質を現し、神の業を行うことを切に望み、日夜実践しなければならない。そして、彼が神の業を成したことにより、神の栄光を横取りしたり、神を冒涜してしまうような可能性は皆無であるということである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年4月21日 | トップページ | 2018年4月25日 »