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2018/04/21

「神の前に、どのようにあるべきか」ということについて

説教一:『魂という神殿について』

 キリスト信仰にとって、障害になることが2つあるとエックハルトは言う。それらは、「無知」と「自我性」である。
 この「無知」とは、「自分の信仰に対する無知」であり、「神のために生きている」と思いながら、実は「自分のために生きてしまっている」ということである。エックハルトは、そのような人々のことを「神と取引をしている商人のような人々」と表現する。そして、「彼らは真理についてほとんどあるいは全く知ることがない」と言う。主イエスは、そのような人々を、縄の鞭で宮から追い出された。そして、「真理が認識されると商人たちは立ち去り、そして真理はいかなる取引も求めることはない」という。「ただ神の栄光のためにのみ働き、自分のものを決して求めることがない」人々こそが、自分の信仰を真に自覚している人々なのである。
 次に「自我性」であるが、これをエックハルトは、「鳩を売っていた人々」と表現する。主イエスは、彼らに対して、「このようなものは、ここから運び出しなさい」と優しく諭されたと言う。つまり、彼らは確かに、「ただ神の栄光のためにのみ活動していた」のだが、その方法や形態、内容が自分の独断から出たものであったということである。これに対してエックハルトは、「これらのわざによって最善の真理への到達がはばまれてしまう」と言う。
 この「無知」と「自我性」から人間の精神が自由になるならば、彼の魂は、さながら神を宿す神殿のような輝きを放つものになると彼は語る。つまり、信仰の刷新のためには、この「無知」と「自我性」から解放されることがどうしても必要なのである。
 この「解放される」ということは、「神殿としての自分の心からこれらの障害を追い出す」ことであり、エックハルトが提示したいことは、この信仰における「積極性」なのである。彼は、その一連のドイツ語説教集を、この最低レベルの積極性から始めるのである。そして、人がそのことに成功するまでは、彼の心が主イエスの語りかけを聞くことはないと言う。こここそが信仰の出発点なのである。つまり、主イエスが言っておられた「自分を捨て・・・」ということであり、それをエックハルトは、「それは、こういうことだ」と熱く語っているのである。
 あなたの心が、もし主イエスの語りかけを真に聞くことができるなら、ただそのことのみにより、あなたは、「無知」と「自我性」から解放されることができる。『彼らはそれらを片付け去った。見なさい、今やそこにはイエスのほかだれもいない。そしてイエスが神殿の中で語り始めたのである。あなたはこのことをはっきりと知っておかなくてはならない』とエックハルトは語る。
 あなたがもしこのスタート地点に自分を置くことができるなら、あとはもう何もする必要がない。「主イエスは、父の一なる言である」。そして、この「言」があなたにすべてを教える。あなたがまだ迷い続けているなら、それは、このスタート地点に立つことなく、競争をしているからに違いない。あなたは、ただ主イエスがあなたの心の中で語り始めるまで、一生をかけても待つ必要があるのである。もっとも、それは決して一生もかかるものではない。なぜなら、エックハルトが言う通り、それを一番心待ちに待っているのは、主イエスご自身だからである。

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エックハルトの真意

 これで14回目の研究になるのだが、私がマイスター・エックハルトを再三に渡って取り上げてきた理由は、ただ一つ、「自分の信仰の刷新に役立つ」と思われたからである。私は、信仰の役に立たないようなものには、あまり興味がない。だから、エックハルトがただ神秘的だとか、宗教を超越しているとか、その類のことだったら、わざわざブログで取り上げる価値はないと思っている。だから、ここで書きたいことは、まさに信仰の実践的なことなのだ。
 それでは、エックハルトがどのようにして、キリスト信仰において実践的であり得るのか。それは、彼自身がまさに実践的な信仰を求めていたことによる。そして、彼は実際、自分のキリスト信仰を常に刷新するべく、様々な観点から研究していたのであり、説教においてそれを人々にとつとつと語ってきたのだった。
 そこで、このカテゴリーで取り上げたいことは、エックハルトのドイツ語説教において、その実践的な信仰理解がどのように表現されているかということである。
 というのも、最近またエックハルトのドイツ語説教集を読み返してみて、それが圧倒されるほどに真新しく、心に迫って来たのだ。そして、彼独特の語り方、切り口なくしては、それが表現できなかったのかも知れないとさえ思ったのである。それを当時、彼の口から直接に説教を聞いた人々、そして今日、彼の残した説教集を読む人たちがそれを彼の意図通りに受け取るかどうかは、また別問題なのだが。少なくとも、私にとっては、これは、あるべくして語られた説教であり、ここに信仰の刷新のための驚くべき真理が滔々と語り尽くされていると思われるのである。

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