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2016/08/20

予定論

 予定論は、キリスト諸教派に様々な形で浸透している。その中で、もっとも恐ろしいものは、ウエストミンスター信仰告白に提示されている「神の永遠の聖定」という教理であり、私自身は、これを信じている。新約の時代において、信徒を神に結びつけ、福音が完全な救いとなるために、この予定論が重要な位置を占めていることは、疑いの無いことと思われる。
 つまり、ひとたびキリストを信じた者は、その生涯を通じて、キリストに従い続けることが保障されているのである。しかし、現実には、信仰の生涯の途中で、キリスト信仰から離れてしまう人もいる。予定論に従えば、その人は、最初からキリストを本当の意味で信じてはいなかったことになる。とすると、問題なのは、今の自分がキリストを本当に信じているのかどうかということであり、それを試すのが試練というものであろう。つまり、試練は、それを体験する人がキリストを本当に信じているかどうかを試すために必要なものであり、それなくしては、この時間の中で、私たちは真にキリストにある確信に導かれることはできないということである。
 私には、この「信仰の確信」というものが、私たちがキリストに従う上で、非常に重要なものに思われる。というのも、キリストは「行いの内容」によって私たちを見られるのであろうか。また、「話す言葉」によって私たちを見られるのであろうか。さらに、「精神の状態」によって、私たちとの距離を変えられるのであろうか。いな、そうではなく、キリストとの距離を決めるのは、私たち自身なのである。
 私たちが心の扉を開けさえすれば、キリストは私たちの中に入ってきてくださる。また、私たちが自分の十字架を負って従えば、キリストは私たちを通してご栄光を現される。聖書のどこを読んでも、私たちの行動や心を見て、キリストが行為を選択されたという記事はないのである。ただ一つあるとすれば、彼が郷里に行かれたとき、そこの人々の不信仰のために、力ある業を行われなかったと記されている。つまり、キリストは、私たちの信仰に応じて働かれるのであり、その意味で、「信仰の確信」が大切なのである。私たちが確固たる信仰に立ちさえすれば、キリストは私たちを通して御業を行うことがおできになるのであり、そのために私たちは、信仰の確信を数々の試練によって培わなければならないのである。

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