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2016/08/18

なにが変わったのか。

 「新約の時代」とは、文字通り新しい契約の時代のことである。しかし、この「新しい契約」とは、何なのか。新約になったら、何が変わったのだろうか。イエス・キリストを信じる人は誰でも天国へ入れるようになったのだろうか。でも、この「信じる」という言葉は、非常に意味深い言葉である。第一、信じているかどうか、どうして分かるのだろうか。どういうのが「信じる」ということなのか。天国の入り口で、主から、「私はあなたを知らない」と言われないためには、どうなっている必要があるのだろうか。たぶん、「あなたを知らない」と言われる人も少なからずいるのだと思う。「金持ちが天国に入るより、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」と主イエスは言われた。この言葉からは、天国に入るのは、それほどたやすいことではないような気がする。また、パウロも「私たちが天国に入るためには、多くの苦難を経なければならない」と言っている。
 ダビデの時代においては、たとえば性道徳などは、割と緩いものであったようだ。ダビデ自身、何人もの妻を持ち、さらに多くの側女を持っていた。そして、そのダビデが神からこよなく愛され、信頼され、大いに祝福されているのだから。しかし、主イエスは言われる、「情欲を抱いて女を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯したのである」と。また、隣人に対して、殺意を抱く者も同様であり、はなはだしくは、悪口を言うことすら、牢獄に入れられるほどの大罪とされるのである。このことからして、新約においては、極端に厳しい律法が支配していると考えることができ、それに合格しなければ、天国に入れないと思われるのである。
 この「新約の時代」という記事の目的は、新約の意味するところの「新しい契約」とは何かを明らかにすることである。私の確信は、文字通り「福音」とは、「完全な救い」という意味であるということである。しかし、それは、「簡単な救い」という意味では断じてない。救いの簡単さは、あるいは救いの困難さは、旧約、新約ともに変わっていないというのも私の確信である。それでは、なぜ新約において「完全な救い」が実現したのか。それは、「困難な救いに入るための完全な方法が提供された」という意味である。しかし、完全な方法が提供されたとしても、それが「困難な救い」であることに変わりはなく、そこに入るには、「多くの困難を経なければならない」のもまた事実なのである。しかし、旧約時代には、この「完全な方法」が存在しなかったが、新約に至って、それが提供されたのである。そして、その「完全な方法」に従えば、だれでも多くの困難の後に、救いに入ることができるのである。
 その「完全な方法」とは、「自分の十字架を負って、主イエスに従うこと」である。そしてそれは、「茨の道」である。それを完全に可能にする方法が、どのように新約聖書に記されているかをこれから見ていきたいと思う。

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