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2016/08/20

王としてのキリスト

 イスラエルという民族は、たぶん出エジプトにおいて誕生したのだと思う。それ以前は、彼らは一つの民族という意識をおそらく持っていなかっただろう。その意味で、エジプトにおける奴隷生活は、必要だったのだろう。そして、そのころ彼らを率いていたのは、モーセという神から選ばれた人であった。その後、士師の時代を経て、ついにイスラエルは王国となっていった。それは、神のご計画であり、全ては王の王たる主イエスを迎えるための準備だったのである。
 このような変化は、私たちの人生においても適用される。つまり、心を治めるものが何も存在しない状態がまず想定される。そのような心は、いつ誘惑に屈するか分からない程、弱く不安定で、自分がどこへ行くのかさえ分からない。次に、人は何かの価値観によって行動するようになる。例えば、士師のように強いということが一つの価値の基準となり得る。しかし、それには、客観性というものがない。「各々が良いと思うことを行っていた」と士師記にある通りである。次に、ついに人は、絶対的な価値観に到達する。その背景には、常に宗教的な概念があり、神の意思が彼の拠り所となる。しかし、彼にとってはそれは、あまりに抽象的で、実践的ではないために、奇跡でも起こらない限り、向かってくる敵に対抗することはできない。彼が実生活の個々の問題に現実的に対応するためには、どうしても、日常の個々の問題を裁き、彼の先頭に立って戦う一人の王が必要なのであり、それこそがイエス・キリストなのである。
 つまり、彼の生涯は、キリストという王を心に迎えるまでは、完全にならないのであり、その日が来るまで、彼の心の探究は続くのであり、苦難もまた続くのである。この一連のプロセスは、人の心における飽くなき探求であり、荒野の旅である。しかしそれは、終わりのない旅ではなく、完全な救いとしての、福音が準備した完成への確実な道筋なのである。

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予定論

 予定論は、キリスト諸教派に様々な形で浸透している。その中で、もっとも恐ろしいものは、ウエストミンスター信仰告白に提示されている「神の永遠の聖定」という教理であり、私自身は、これを信じている。新約の時代において、信徒を神に結びつけ、福音が完全な救いとなるために、この予定論が重要な位置を占めていることは、疑いの無いことと思われる。
 つまり、ひとたびキリストを信じた者は、その生涯を通じて、キリストに従い続けることが保障されているのである。しかし、現実には、信仰の生涯の途中で、キリスト信仰から離れてしまう人もいる。予定論に従えば、その人は、最初からキリストを本当の意味で信じてはいなかったことになる。とすると、問題なのは、今の自分がキリストを本当に信じているのかどうかということであり、それを試すのが試練というものであろう。つまり、試練は、それを体験する人がキリストを本当に信じているかどうかを試すために必要なものであり、それなくしては、この時間の中で、私たちは真にキリストにある確信に導かれることはできないということである。
 私には、この「信仰の確信」というものが、私たちがキリストに従う上で、非常に重要なものに思われる。というのも、キリストは「行いの内容」によって私たちを見られるのであろうか。また、「話す言葉」によって私たちを見られるのであろうか。さらに、「精神の状態」によって、私たちとの距離を変えられるのであろうか。いな、そうではなく、キリストとの距離を決めるのは、私たち自身なのである。
 私たちが心の扉を開けさえすれば、キリストは私たちの中に入ってきてくださる。また、私たちが自分の十字架を負って従えば、キリストは私たちを通してご栄光を現される。聖書のどこを読んでも、私たちの行動や心を見て、キリストが行為を選択されたという記事はないのである。ただ一つあるとすれば、彼が郷里に行かれたとき、そこの人々の不信仰のために、力ある業を行われなかったと記されている。つまり、キリストは、私たちの信仰に応じて働かれるのであり、その意味で、「信仰の確信」が大切なのである。私たちが確固たる信仰に立ちさえすれば、キリストは私たちを通して御業を行うことがおできになるのであり、そのために私たちは、信仰の確信を数々の試練によって培わなければならないのである。

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