« 2015年8月3日 | トップページ | 2015年8月6日 »

2015/08/05

神と相撲をとる(32~33章)

 2人の妻と多くの家畜を含む全財産を抱えて伯父ラバンの家から逃走したヤコブは、兄エサウの住む実家へ向かっていた。それは、神の配剤でもあり、ヤコブは長子としてイサクの家を継がなければならなかったのである。しかし、ヤコブは兄エサウの復讐を恐れていた。そして、ヤボクという渡し場で祈るうちに、その場所に現れた神と相撲をとって勝ち、イスラエルという名と共に神からの祝福を受けたのであった。
 ヤコブは、なぜ格闘で神に勝つことができたのだろうか。また、それには、どんな意味があるのだろうか。まず、神がヤコブに語っていることに注目する必要がある。「お前は神と人と闘って勝った」。ヤコブは、神に勝っただけでなく、同時に人にも勝ったのであった。ヤコブは、神と戦うと同時に人と戦っていた。つまり、ヤコブが戦っていたのは、神であり、同時に人である者であった。「神であり、同時に人である者」、それは、イエス・キリストであるが、そのことは、今は置いておこう。神はこのとき、神でありながら、同時に完全なる人になっておられたのである。それは、なぜか。ヤコブと戦うためであった。神は、ヤコブと対等に戦う方法を捜し求め、人となって現れることを選択されたのであった。何のために?ヤコブと戦うためであり、そのこと自体が目的だったのである。戦いとは何か?私たち人間は、例えば生活の糧を得るために戦う。あるいは、恋人を得るために戦う。つまり、何か別のものを自分のものにするために戦うのである。しかし、神にはそのようなことは必要ない。私たちには、戦いの真の意味が分からないのである。戦いとは、契約以上のものである。神は、アブラハムを選び、彼と契約を結ぶことにより、人間と特別の関係に入られた。創造主と被造物の関係のような、主従関係ではなく、対等の本気の関係にである。しかし、究極的な本気の関係とは、戦いなのである。そして、戦いの本質は、どちらが勝つか分からないところにある。そして、どちらが勝っても、負けた方は、勝った方である相手を祝福するのである。神は、決してヤコブより弱くはなかった。しかし、「ヤコブに勝てなかった」のであった。神の目的は、ヤコブに勝つことではなく、ヤコブと戦うことだったのである。そのために神は人となり、それゆえにヤコブに勝てなかったのである。そして、夜が明けるという期限切れを前に、反則を犯された。つまり、ヤコブの腰のつがいに触れられたのであった。そのことにより、神は反則負けを期し、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と言って、ヤコブを祝福されたのであった。このことにより、ヤコブは神と戦って勝った者と呼ばれる。それは、全世界でただ一人、神と最高の親密な関係を持った者という意味であり、神は、イスラエルをそのような民族として選ばれ、本気の関係を持つことを意思されたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブとラバンの化かし合い(29~31章)

 兄エサウから長子の特権と父からの祝福を横取りし、怒りを買ったヤコブは、母の助言により、伯父のラバンの家に身を寄せるべく独り旅立った。彼はそこで、ラバンの2人の娘、レアとラケルを妻に迎える。そのために彼は、ラバンに騙されて14年間仕えなければならなかった。その後も、悪賢いラバンは、ヤコブを良い様に働かせて家畜を増やした。しかし、悪賢さではヤコブも負けていなかった。ラバンとの取引における彼の策略により、ヤコブはラバンの多くの家畜を自分のものにし、2人の妻を連れてラバンの家から故郷へと逃走することになる。ヤコブの2人の妻は、子を生むことにより、自分が夫に気に入られようとし、自分の仕え女までヤコブに与えて子を生ませた。そのようにして、ヤコブには11人の男子と1人の女子が誕生し、ここからイスラエルの部族が形成されて行くことになる。ここにおいては、注目すべきことが2つある。まず、聖書的な概念であるところの「神の予定」という事柄と、「イスラエルとはどのような民族か」ということである。
 まず、「神の予定」についてであるが、これは「予定論」と呼ばれている事柄である。しかし、多くの人は、この「予定論」について誤解している。それは、「神が未来に起こることについて予め詳細に定めていて、誰もそれを変えることができず、すべては映画のシナリオのように、ただ無味乾燥に動いて行くのであり、人間の自由意志と矛盾するものである」という考えである。しかし、予定論とは、決してそのようなものではない。それは、「遺棄」の教理と密接に関連していて、人間の自由意志に基づくものなのである。つまり、神は、ご自身のご計画を実現するために、人間の自由意志に対して働きかけられるのである。出エジプト記におけるエジプト国王パロの場合、神は彼の心が頑なになるように様々な出来事を引き起こされた。そのすべての結果、パロは最後の最後までイスラエル民族の解放を自分の意志で拒否したのであった。そのように、神はその全能により、人の自由意志を巧妙に取扱われることにより、歴史を動かし、予定を実現されるのである。
 そこで、ヤコブもエサウもその両親のイサクもリベカも、またラバンさえも、神の予定の中にあったことになる。神のご計画は、ヤコブからイスラエル民族を創造することだったのであり、彼の妻たちは、そのように相争ったのであった。そして、この神のやり方は、人間の自主性と矛盾しないばかりか、全能者が自由意志を持った人間と関わる上での、もっとも人間を尊重した方法なのである。
 また、イスラエル民族については、神はこれを純粋培養されようとは思われなかった。上記のような生まれ方をした12人、特にエジプトで育ち、エジプト人の妻を迎え、2人の混血の子、マナセとエフライムを生むヨセフを含む民族の血は、純粋とは決して言えない。むしろ、彼らを混血の民族とすることで、全世界の民族の代表とされたのであった。そして、この雑多な民族と契約を結ぶことにより、それを一つの純粋な民族とみなされた。イスラエル民族の純粋性は、神との契約にのみ基づいているのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年8月3日 | トップページ | 2015年8月6日 »