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2015/07/14

アブラハムの神話級美人局(12~15章)

 「美人局」という言葉は、初めて知ったが、あまり良い言葉ではないようだ。しかし、このブログでもそのままに記載しておこう。というのも、聖書は、人間のどろどろとした側面も、包み隠さずにそのまま記載しているからである。
 まず最初に、はっきりさせておく必要のあることがある。それは、聖書の根本的な考えとして、「義人はいない、一人もいない」という主張がある。実に、イエス・キリストでさえも、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言っておられる。まして、アブラハムが義人であろうはずもない。聖書の中には、アブラハムに対して、「義と認められた」というような表現も確かにあるが、良く読むと、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記 15:6)」というような表現になっており、「アブラハムという人間」が義なのではなく、「彼の行為」が義と認められたということである。そのように聖書は、「義」とか「正しい」とかの概念を、特定の人間に帰属させることはしない。キリスト教は、誰か善い人、先生、師匠、等々を崇め、その人にあやかること等を追求する宗教ではないのである。もちろん神にも、神のようにもなろうとするものではない。それならば、聖書に出てくるヒーローたちには、何の意味があるのか。それは、彼らは、聖書の歴史を形成してきた人々なのであり、その意味では、私たちと同じ人間なのである。
 だから、私がアブラハムについて書かれた記事を読むとき、私の目的は、神がアブラハムとどのように関わられたのか、神と関わったアブラハムがどのような働きをしたのか、アブラハムがどのような成功を収め、またどのような失敗をしたのか。そして、それはそれぞれ、どんな時だったのであり、そうなった原因は、どこにあったのか、等々を読み取り、それを自分に適用することなのである。つまり、「アイ・アム・アブラハム」(私は、アブラハム)ということである。
 それでは、アブラハムは聖書の中で、なぜ「信仰の父」と呼ばれているのか。それは、彼が神の約束の成就を疑うことなく信じたからであり、そのことを最初に行った人だからである。この「最初に行う」ということが重要なのだが、それも決してアブラハムに専属のものではなく、彼がやらなければ、他の人がやっただろう。そして、その人が「信仰の父」と呼ばれるだけの話である。しかし、神は実際にアブラハムを選び、彼に信仰の試練を与えられ、アブラハムはそれをパスしたのであった。そして今日、それを読む私たちも、アブラハムのように、これから与えられるであろう信仰の試練をパスすることを願い、決心するのである。
 次に神は、ご自身と関わりを持つ人を特別に取扱われる。神は、ご自身の意思でアブラハムを選び、彼と特別な関係を持たれたので、彼を特別に取扱われたのである。そして、それは何もアブラハムに限ることではなく、今日の世界においても、神が関係を持たれる人、いや神と関係を持とうと願う人を特別に取扱われるのである。決して、善い行い等をする人ではなく、神と関係を持とうとする人なのだ。聖書においては、人の善い行いは、あまり価値のないものでしかない。しかし誰であっても、神と関係を持つことを願うならば、それは神に着目されることなのだ。それでは、「神と関係を持つ」とは、いかなることか。それは、聖書のどこにも書かれていない。そしてそれは、聖書のいたるところに書かれている。聖書のヒーローたちがその生きた実例なのである。

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