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2015/07/11

ノアの洪水(6~10章)

 アダムの堕罪後、神は継続してこの世界に介入されてきた。例えば、罪を犯したアダムをエデンから追放したり、弟を殺したカインをその地から追放したりした。そのように、ご自身が創造した世界に対して、神は絶対的な覇権を持っているというのがキリスト教の教理であり、これを否定するクリスチャンはいないであろうし、それはまた福音宣教の中に密接に組み込まれている動かせない事柄なのである。
 そのようにして、神はこの世界を何とか運営して行こうとされていたのだろう。この「何とかやっていく」というような表現は、全能の神には相応しくないものかも知れない。神は確かに全能で、神にはできないことはない。しかし、それを行使すれば、どうなるのかということも神はご存知なのである。例えば、この世界をすべて滅ぼしてしまうこともできるが、それでは、この世界を創造した意味がない。また、人類のすべての罪をただただ赦すこともできるが、それでは、この世界の統制が取れなくなり、めちゃくちゃになってしまうだろう。それを避けるために、人間の心から悪い心をすべて取り去ることもできるに違いないが、それでは、人類はただのロボット(機械)と化してしまうだろう。神の最初からのやり方は、この世界と「関係」を持つという高度なやり方だったのであり、神は御遣いも導引してそれに全力を尽くされたようである。しかし、御遣いもまた、ある程度自由意志を持っていたため、神に忠実でなく、定められた場所から離れ去り、人と結婚してしまうような者も出てきたらしい。神の造られた人という存在は、そんなにもすばらしく魅力的であったのだろう。なにしろ、神は人をご自身の姿に創造されたのだから。それゆえ、御遣いにも人を統制することはできず、できる者があるとすれば、それは人間自身なのである。
 しかし人類の罪が限界に達し、それ以上の放任が即全人類の破滅を招く段階に達したとき、神はこの世界に再びご自身で介入することを決心された。それがノアの大洪水なのである。神は、この世界と新しい契約を結ぶことにより、それを条件に、この世界を存続させようとされた。しかし、契約というものは、私たち人間の場合もそうであるが、対等な者同士が対等な関係において結ぶものである。神は、地上を見渡し、ご自身に従う無垢な人間ノアを選び、彼を介してこの世界と契約を結ばれたのである。そして、その契約に与ったのは、箱舟に乗り込むことのできたものたちだけだった。
 神がこの世界と結ばれた契約とは、次のようなものである。
 ①神は、今後もう、この世界に直接介入することはされない。
 ②神は、ご自身の代わりに、人間にこの世界を治めることを託される。
 ③人を殺した者は、自らの命により、これを償わなければならない。
以上であり、これらを条件に、神はこの世界を存続させられたのであった。
 つまり神は、不完全な存在である人間に、この世界の統治をゆだねられたのであり、その際に、ただ一つの原則を導入された。それは、人の命の尊厳であり、それゆえ人は、人を殺してはならないのである。神が彼をご自身の姿に創造されたからである。
 これ以後、人間は、自分たちに自ら裁きを行わなければならなくなった。神が裁かないからである。不完全な存在、神の言葉を借りて言えば、「人が心に思うことは、幼いときから悪い」、そのような人間が自分たちで自分たちを裁くことになったのである。ただし、その裁きがどのように愚かであっても、神は一つの原則を貫かれる。命の尊厳の原則である。それを護るためには、神はときにはこの世界に介入されることもあるのである。
 あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、テントの中で裸になっていた。それを発見し、兄弟たちに暴露したハムは、父ノアから裁かれ、「お前は兄弟たちの奴隷になれ」と言われてしまった。人間の行う裁きは、昔も今もそのように本質的には、変わらない愚かなものなのである。

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カインとアベル(4章)

 神様は、なぜアベルの献げ物に目をとめ、カインの献げ物には目をとめられないという、えこひいきをされたのか。それを考えるには、まず状況を良く認識してみる必要がある。カインとアベルは、アダムの生んだ兄弟である。子どもは通常、複数人生まれる。それは、子孫が絶えないようにするためだと思われる。しかし、兄弟というものは、それまでには無かった新しい概念をそこに発生させた。それは、ライバル意識である。アダムは、これを持っていなかった。そして、その次の世代において、初めてそれが発生したのである。兄と弟、そこには自然な序列がある。そのような状況の中に、アダムの犯した神への反逆罪(原罪)がどのように作用したのかは、はっきりは分からない。しかし、両親が神から追放された者であることには、カインとアベルは薄々気づいていたと思われる。
 彼らは、そのように神から離れて暮らしていた。しかし、カインは父とは独立した人格である。父に従う部分と反抗する部分がある。それは、アダムから受け継いだものなのだろう。彼は、自分は父のようにはなりたくないと思ったかも知れない。そしてその彼には、弟というライバルがいた。カインは、一人で神に取り入ろうとしたのだと思う。神に命じられたことのない、献げ物をひそかに持って、神のところへ出向いた。彼は、自分だけは、神から認められると思っていたのだろう。しかし、それを知った弟のアベルは、兄に負けじと、育てていた羊の中から、良いものを見繕って、神のところへ持ってきて献げた。あなたが神の立場なら、どのようにするだろうか。カインの献げ物に目をとめるだろうか。たぶんそうではないだろう。それでは、アベルの献げ物だろうか。それも否なら、あなたは完全に彼らを拒否したことになる。もしあなたが、彼らとの関係をなんとか継続したいと思うなら、どちらかの献げ物に目をとめるべきではなかっただろうか。そして、それはアベルの捧げ物となるのではないだろうか。2人とも受け入れればいいじゃないかと言われる方もおられるだろう。しかし、本当にそれでいいのだろうか。それは、競争心、つまり他人を蹴落としてでも出世したいという彼らの願いを全面的に肯定することになってしまうのではなかっただろうか。このような状況も、私たちには、特別なものではなく、日常の子育てにおいて良く経験するものではないだろうか。献げ物を拒否されて怒り狂うカインに対して神は、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」とカインをたしなめておられる。神は、献げ物を持ってきたカインの心が正しくないことをご存知だったのである。
 神の仕打ちに腹を立てたカインは、弟アベルを殺してしまったので、神によりその住んでいた場所から追放されてしまった。彼は、「わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と恐れを告白している。しかし彼らは、アダムとエバに生まれた最初の子供であれば、他に人間はいないのではないだろうか。これは矛盾に思われる。しかし、以前述べたように、もしあの、エデンの園の出来事が、後の全人類創造の前のフィジビリティスタディだったとすれば、彼らの周りに、すでに神が造られた人間がたくさんいたとしても不自然ではないのではないだろうか。

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