« 2015年6月28日 | トップページ | 2015年7月11日 »

2015/07/10

アダムとエバの追放(2~3章)

 アダムとエバが「善悪を知る木の実」を食べてしまったことが「原罪」だということは、やはりショッキングなことだと思う。そんな些細なことが、なぜ人類を破滅に導くような大きな罪なのか。それについては、「原罪」という意味を良く考えてみる必要があると思う。つまりそれは、「罪」ではなく、「原罪」であり、恐ろしい行為の基になるものなのだ。私たちは、人間の心の中にある「罪」とそれが外に現れ出た「罪の行為」とを混同していることがある。この世界の法律は、心の中にある罪を取扱わず、外に現れた「罪の行為」について裁きを行う。しかし、どのような恐ろしい行為も、その発端は、ほんの些細なことにあったりする。そしてそれを突き詰めて行くと、結局なにか、かすかなものかも知れないが、ある「反逆的な感情」にたどり着くのではないだろうか。
 アダムの場合は、神から明確に、「この実だけは食べるな」と言われていた。彼は、周りの世界に関する知識をほとんど何も持っていない、いわゆる無垢の状態だったと思われる。彼には、快楽への誘惑等は何もなかったと思われる。世界には彼ら以外に人は存在せず、虚栄心や自己実現に対する願望等も無かったと思われる。そのような彼に、たった一つの戒めが与えられ、それが「この実だけは食べるな」だったのであり、よりによって、それを彼は破ってしまったのである。最愛の友エバの助言によって。彼は、神とエバを比べて、エバを選んだのであり、神を不要とすることにより、自ら神との関係を断ってしまった。
 しかし、なぜ神は、アダムに禁令を与えたのだろうか。それはたぶん、アダムと関係を持ちたかったのだろう。それも自由意志を持つ者として。ある意味、対等の関係をである。しかし、すべてを神から与えられていたアダムとどのようにして神は対等の関係を持てるのだろうか。例えば、「一緒にゴルフをやる仲間」というような関係ではいけないのだろうか。しかし、そのような関係は、より成熟した関係であり、一挙に築き上げることはできないだろう。それは、その前に、基本的ないくつかの関係としての基礎がなければ成り立たない。つまり、まったく知らない同士がいきなりゴルフゲームをやることは考えられないのである。たとえ初対面にしても、相手のキャラクターを知っているとか、共通の背景や利害関係があるとか、そういう土台がなければゲームをする意味が見出せない。このときのアダムと神の関係において、何か意味のある対等の関係とは、この禁令くらいしかなかったのではないだろうか。そして、アダムがそれを守る限りにおいて、彼は神との意味の有る関係の中にいることができたのだと思う。それは、ある非常に特殊なことなのだろうか。いやそれは、私たちが子どもを生んで育てることにおいて、いつもしていることなのである。
 そのように考えると、ここに記されている「罪の起源」に関する内容は、軽薄なものではなく、むしろ非常に深いものに思われる。それを読む者は、自らをエデンの園に置き、彼自身がアダムになる必要がある。そして、自分の心で、そのとき神から自分に与えられていたすべてのものを味わい、それらを賜った神から、あのたった一つの戒めを受け取り、それを自ら破ることを擬似体験することが求められるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤハウェの天地創造(創世記1~2章)

 神の天地創造の記述は、創世記1章と2章で矛盾しているように見える。よく言われるように、異なる資料が併記されたからなのか。でも、聖書の編集者は、たぶんそれを認識していたに違いない。それなら、それは実は矛盾していないのではないか。今となっては、私たちは「矛盾している」という考えに立つことも、また「矛盾していない」という考えに立つこともできる。どちらかは、決着がつかないのだ。私は、「矛盾していない」という考えに立つ。それについては、このブログの「2つの創造物語について」という記事を書いたのでそちらを見ていただきたい。要するに、1章は、「人類の創造」について、2章は、「人間の創造」について書かれているということだ。そして、第2章の話は、第1章の話の途中、すなわち10節と11節の間に位置するものであり、人類創造という大事業の前のフィジビリティスタディであり、そのワークエリアがエデンの園という神が特別に「設けられた」場所と考えるのである。その根拠は、2章5節に、「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった」と記されているので、この時点で地はすでに存在するが、草木はまだ作られていない。その状態は、1章の10節の状態に当るのである。また、2章8節には、「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」と記されているので、この場所が特別に設定された領域であることが分かる。そして、2章19節では、「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた」とあり、神は、そこで様々な木を生やしたり、種々の動物を作ったりして、文字通りの実験をしておられるのである。
 もちろん、この説明ですべてが解消されたとか、議論に決着が付いたと言うつもりはない。今となっては、それは不可能だから。本当のことがどこにあるのかは、だれにも分からない。必要なことは、聖書にそのように書かれていることを自分がどのように受け取り、どのように信じるかだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

なんか分かんなくなってきた

Img_2552 久しぶりに「これ、ブログに取り上げてみようかな」と思う本に出会った。というのも、この何年かの私が考えているようなことに似たことが書かれている本だから。ここ数年の私は、ますますキリスト教にのめり込み、何かこう、自分で自分の顔の両側に塀のようなものを立てて、馬車馬のようにわき目を振らずに信仰に向かって突き進んでいたように思えるからだ。そしてそれが究極のキリスト信仰だと信じていた。つまり、それは100%の信仰であり、それ以外にはキリスト教徒として生きる道はないと思っていた。それは今も変わっていないのだが、最近、そのような狂信的な自分に、一抹の疑問を感じ始めてきた。「本当にこれで良いのだろうか」と。というのも、信仰の代償として、何かを失ってしまったのではないかと思えたからだ。イエスも聖書の中で、「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる」と言っておられるので、信仰の代償として、多少人格を失っても、致し方ないとも思っていた。そして、イエス自身も、聖書を読む限りにおいては、敵も多く、最後にはほとんどすべての人に見捨てられてしまった様だからである。
 そんなとき、この本を手にし、何か共感のようなものを覚え、さらにまた、「これでいいのか」感が再燃してきた。確かにこの本に書かれていることには共感できるし、聖書的にも概ね正しいと思われる。しかし、これはもしかしたら、今の私の生き方そのものではないのか。ただ神に喜ばれることだけを追求し、人との関係を二の次、三の次にするような生き方。それでいてまた一方で、「福音を宣べ伝えなければ」などと焦っている自分の姿。それは、大きな矛盾ではないのか。
 もしかしたら、聖書の本質は、やはり「愛」なのではないのか。クリスチャンは、羊のようにバカだから、恐ろしい聖書の意味が分からずに、騙されて「愛、愛、・・・・」と言っているのではなく、本当に「神は愛」なのではないのか。この本を読んでいて、そんな風に思い当たったのであった。
 それならば、この本を題材に、またブログを書き、自分の信仰について、もう一度見直してみようと思った。今の自分は、そんな、何か大切な転機にいるように思えたのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年6月28日 | トップページ | 2015年7月11日 »