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2015/05/14

なぜという問いのない生き方について

 エックハルトは言う、「子によって生きるのでなければ、どんな人でもその点において正しいとは決していえない」と。この「子によって生きる」とは、キリストという王に従って生きるということである。しかし、「キリストに従う」とは、彼にただ隷属することではない。それ以上のことなのだ。つまり、自らの意思で彼に仕えることである。ちょうどヨアブがダビデに仕えたようにである。キリストに仕える者は、何ものにも隷属してはならない。自分の心にも、また論理や法則にも。つまり、「なぜ」という問い無しに仕えることが求められるのであり、神もそのような者を喜ばれるのである。
 しかし、いったいどのようにすれば、ただの隷属ではなく、自分の意思で神の喜ばれることを行うことができるのか。それには、彼が真理そのものとなることが必要である。エックハルトは語る、「この露な本姓のうちに直接立とうと思うものはだれでも、個人的なものすべてから離れていなければならない」と。しかし、「個人的なものすべてから離れる」とは、仙人になることでも、空想にふけることでもない。再びエックハルトによれば、「内面への沈潜、敬虔な祈り、甘美な法悦、あるいは神の特殊な恩寵の内にあるほうが、かまどの火のそばや、うまやにいるよりも、多くのものをうることができるなどと思い違いをするならば、あたかも、神をとらえ、その頭にマントをかぶせて腰かけの下に押しこめてしまうようなもの」なのである。彼はさらに語る、「神があなたに節に願うことは、あなたが、自分の被造物としての有のあり方にしたがって、自分自身より離れ、あなたの内に神を神としてあらしめることである。これをおいて他にない」と。この「自分の被造物としての有のあり方にしたがって、自分自身より離れ・・・」とは、どういうことであろうか。それは、「自分の具体的なあり方において自分を捨てる」、つまり、「生まれながらの自分というものを捨てて、神との必然的な関係、それもきわめて具体的な関係に入る」ということなのである。しかし、目に見えない神と具体的な関係に入ることはできない。そこで神は、この世界に御子を送って、私たちの王とされたのであり、私たちはこの一人の王と具体的な主従関係に入ることにより、自分を捨て、この王に仕えることにより、「なぜという問いのない生き方」に入ることができるのである。このもっともありふれた主従関係としての王と家臣の関係の中に、もっとも高度な信仰の状態が実現されるということがキリスト教の奥義であり、三位一体も、パウロの神学もみなそのためにあるのである。というのは、自分の意思で神の御心を行うためには、神と一つになることが必要なのである。しかし、「神と一つとなる」ということは、自己喪失でも霊的恍惚状態でも、さらには神を冒涜すること等ともまったく異なることだからである。
 これについてエックハルトは語る、「愛するものよ、あなたの内で神が神であることを神に許したとしたところで、あなたにどんな不都合があるというのだろうか。神のためにあなた自身から完全に離れよ。そうすれば神はあなたのために自分自身から完全に離れるのである。この両者が共に離れるとき、そこにあるのはひとつの単純な一である。この一なるものにおいて、父はその子を最内奥の泉に生む。そこに聖霊が咲き出で、そこにひとつの意志が神の内に湧き出でる。この意志は魂に属するものである。」と。

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