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2015/05/11

魂の内にあるひとつの力について

 「我々は、神の内に生き、活動している」とパウロは言った。その意味で、神は私たちを包み込むような大きな存在である。しかし一方で、私たちは聖霊の宮と言われる。その意味では、私たちは神を包み込むような、というか、神が内在されることのできるような存在なのである。というのは、聖霊は神の一部なのではなく、神そのものであるお方なのであり、主イエスもまた、「わたしと父は、来てあなたの内に住む」と言われた。神は、まさにそのように私たちの魂を造られたのであり、そのような大それたものを神は造ってしまわれたのである。エックハルトは、この説教の冒頭で、ルカ10:38を引用して、「彼女、すなわちイエスを迎え入れた人が、処女であった、ということはどうしてもそうでなければならなかった」と言っている。つまり、主イエスを心の中に迎えたいと思う人は、どのようなことに対しても、一切の先入観を持たない、精神的に処女のような、自我性から解放された人でなければならないのである。
 もっとも、人が救いに与るためには、彼の自我性が必要である。彼は、一人の罪ある人間として主イエスの下へ来て、十字架を仰ぎ、自分の罪を告白して救われるのである。しかし、ひとたび救われた後には、今度はその自我性から完全に開放されなければ(精神的に処女にならなければ)、主イエスの教えを真に受け取ることはできないというのである。しかし、エックハルトはさらなる段階を語る。それは、「女」という段階であり、マリアのように、主イエスの傍らに座って、偏見無くそのみ言葉に耳を傾けているだけではなく、マルタのように、ただ主のために働くという段階である。この「主イエスのために何かを生み出す」ことが、エックハルトの言う「女性」性である。そして、その「生む」ということが神の前で何か意味をもつためには、すなわち、無ではないもの、「新たな創造物」となるためには、それが神の業である必要がある。無から有を創りだせるのは、神だけだからである。しかし一方で、それはまた何と、実際に私たちの成す業でもあるのであり、そのような神的な力が私たちの内に与えられているとエックハルトは言い、それを「魂の城」と呼んでいる。主イエスも、「あなたがたは、わたしの業を成すようになる」と言われたように、私たちは主イエス、すなわち神と同じ創造の業を成す者とされるのである。しかし、ここのところが、かなりきわどく、異端とすれすれの領域なのであるが、私たちは神の力によって神の業を行うのであり、神が共におられなくては、神の業を行うことができない。それは、主イエスも同様であった。しかし、同時に、その業を私たちが行っているということも真実なのである。それはちょうど、子供を生むのが私たち人間であり、それが同時に神の成される業であるというのと同じである。
 こと精神に至っては、この神の業を行うためには、魂という精神の王国に、主イエスという王が必要なのである。そして、戦うのは私たち自身であり、勝利するのも私たちである。私たちは神により勝利し、神に栄光を帰すのである。この神と人の役割分担というか、領域の融合と区別を正しく受け取り、無垢な心で従うことが求められるのであり、そのために私たちは、エックハルトの言う、「処女であり女である魂の城」となり、そこに主イエスが登り来たり、迎え入れられ、彼が語る仕方で永遠にとどまるということが必要なのである。

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