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2015/05/08

魂という神殿について

 「神が力をもって思いのままに支配しようとするこの神殿とは人間の魂のことである。」とエックハルトは言う。神は、どのようにしてそのことを成されるのか。その前にまず、そのことを成されるのは、「父なる神」ではない。父なる神は、「裁く方」とか「愛」とか言われるが、それは「支配」ということとは異なるものである。また聖霊は、「助け主」とか「慰め主」とか言われているが、それもまた「支配」とは異なる。御子は、「救い主」とか「購い主」と言われるが、それさえも「支配」とは異なっている。「支配」とは、妥協を許さない完全なものであり、そのために何かの手段を使うというようなものではなく、方法なく、手段なく自由であり、しかもその支配から脱するあらゆる可能性を排除するようなものでなければならない。それでは、神はどのようにして人間の魂をそのように支配しようとされるのか。
 けだし、この「支配」とは、自由意志を持っている人間が、自ら望み、喜んで、その支配に服することを意味するのであり、それ以外の例えば「啓蒙」や「取引」や「恐怖」等による支配は、本当の意味の支配ではなく、そのようなものが人間を幸福にすることはない。主イエスは、「このようなものはここから運び出しなさい」と言われた。この本当の意味の「支配」が確立されるためには、どうしてもこれまでに無い何かが成されなければならない。それは、「新しい創造」である。神は、「ことば」によりこの世界を創造された。そして、いまもう一度、「ことば」により人の魂を再創造しようとされるのである。主イエスこそが、この生きた「ことば」である。しかし、この「ことば」を聞くためには、私たちは、まずもって「心貧しく」ならなければならない。私たちの魂が、固唾を呑んで、この「ことば」が語られるのを待ち望むほどに。それは実に、「無からの創造」である。それまでにあった、どんなものも、この新しい「ことば」とは、関係がない。しかし、それが語られるとき、私たちの内で「新しい創造」が始まる。そして、その「創造」は、人の魂を新しく造り変える。どのようにしてであろうか、それは実に「約束の地の奪還」なのである。なぜなら、一度目の創造が完全なもので、もはやそれにさらに付け加える必要がないようなものであったとしたなら、二度目の創造は、私たちが失ってしまったそれらのものの奪還に他ならないからである。そして、その奪還は、一人の王によって成されるのである。そして、私たちは知る。その一人の王イエスこそが約束の地であることを。それは、主イエスがあなたにとって、すべてのすべてとなることである。あなたの周りのすべての事柄の順序が入れ替わる。すべてが、これ以上あり得ないほど、整然と位置が整えられ、あなたは初めて、自分の人生の意味を理解する。いや、あなたという存在の意味、価値、愛おしさ等々を真に理解するのである。それは決して、「知り尽くす」というような意味の軽蔑すべき退屈なものではなく、すでに見知ったものも、そして未だ見ぬ無数のものさえも、その目的としての御子の内に、確固とした必然を持つことを予感するものとして、あなたの所有とされていることを知ることである。そして、神は、天国のためでもなく、天使のためでもなく、ただあなたの魂のために、そのことを成されるのである。

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