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2015/05/07

エックハルト再び

 なぜまた、再びエックハルトを研究しなおす気になったのか。それは、私の信仰がまた一つの異なる段階に入ったと思ったからである。それは、王としてのイエスに仕えるという段階である。私にとって、もはやイエス・キリストは救い主ではない。彼は、一人の王である。それも、ただ一人の王なのだ。旧約聖書のすべてが、その長い歴史が、その壮大なドラマが、この一つのことを語っている。しからば、新約聖書は何を語っているのか。それは、その一人の王が今生きておられるということである。そして、主イエスを信じる者は、このお方を王として、仕えることが求められる。もしそうなら、彼の人生は、生まれつきの彼の人生に比べて、まったく変わってしまうだろう。そこには、もはや個人的には、楽しみも喜びもない。ただ、「仕える」という必然のみがある。そして、そこへ駆り立てるものは、その一人の王の気高さである。ただ聖霊のみが、このイエスという王の気高さを人間の魂に啓示することができる。そして、この啓示を受けた者にとって、もはやどのような喜びもそれは無に等しいものとなる。
 エックハルトは、それを知っていたのだろうか。私は、彼が知っていたと思う。そうでなければ、あのように書くことはできなかっただろう。しかし、エックハルトの説教と言われるものが、そのことを十分に提示しているかどうかということについては、少し疑問が残る。というのも、そこに聖霊が働かなければ、それが啓示されるということはないであろうから。つまり、聖霊の啓示は、文字を通しても、つまり口述筆記を通しても伝達されるのかとい問題がある。そしてそれは、かなり疑わしい。しかし、エックハルトの説教が往々にして、否定神学的な方法に負っていることを考慮するならば、あるいはそれも可能なのかも知れないと思う。しかし、それにしても、人が、エックハルトの説教の口述筆記をただ読んだだけで、聖霊の啓示が伝わるとは毛頭思えない。そこには、なんとしても、何かがなされなければならないと思うのだ。それが、「解釈」なのである。しかも、それは単なる用語や考え方の説明などではなく、異なる言葉や表現による言い換えが必要なのであり、それらと併せて、口述筆記の原文を自分のこととして考察することによって初めて、聖霊の助けにより、当時の啓示内容が蘇えるということが起こり得るのではないかと思うのである。

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