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2013/12/12

キリスト教の真理というもの

 キリスト教が信じられないという人が良く口にすることの一つに、「愛の神が人を地獄に落とすはずがない」ということがある。しかし聖書には、死後裁きがあるということが書いてあるし、特に旧約聖書において、神に裁かれて、死に追い込まれたような事例がたくさん見受けられる。そして、クリスチャンは、それらを文字通り信じていながら、「神は愛です」としゃあしゃあと言ってのける。いったいどうして、そのようなことが可能なのだろうか。これは、並みの精神の人には、決して理解できないことだと思うのだが。クリスチャンと公言し、このようなことに少しも疑問を持たない方々は、文字通り、洗脳されていると言われても仕方がないのではないだろうか。
 いったい、全能の神が、どうしてあのような旧約聖書の悲惨な歴史を演出されたのか。それ以外に方法がなかったのだろうか。そうとしか考えられない。かのキルケゴールが言ったように、「全能の神にも、おできにならないことがあるのだ」。それは、「躓きの可能性を取り除けること」。神は、人をご自身の姿に創造された。神よりもわずかに劣るものとして。それゆえに、人の心を変えること、特に、ご自身を信じさせること、これこそが神にとってもっとも難しいことなのだろう。悪魔は、人の心を誘惑して、神から遠ざけようとする。それが可能なのは、それが割りと簡単なことだからである。まして、悪魔には、人を神に導くことなど不可能である。それがもっとも難しいことだからである。それは、神のみに可能なのであるが、それにしても、神にとっても非常に難しいことなのだ。神が人をご自身の姿に似せて、ご自身に等しく造られたからであり、それゆえに、神は、人の魂をねたむほどに慕っていらっしゃるのである。
 聖書の中に、神が感情を持っているように書かれている部分がある。実際、神は怒られたり、憤られたり、悲しまれたり、後悔されたり、思い直されたり、まったく、気の短い老人のように振舞われている。それを読むとき、「これって、本当に全能の神様なのだろうか」と疑いたくなることがある。しかし、聖書に書かれていることを真理とするならば、その理由は唯一つ、神にとっても困難なことがあるということであり、それこそが、人の心に関わることなのである。そして、その神の姿に造られた人間にとって、難しいことは、他にもたくさんある。例えば、「天国に入ること」。イエス様は、人が天国に入るよりも、ラクダが針の穴を通ることの方が簡単だと言われた。パウロも、「それには、人は多くの苦難を経なければならない」と言っている。つまり、それは、ただ漫然と待っていて実現するものではなく、人が自ら「戦い取る」、「奪い取る」必要があるもの、どうしてもそうでなければならないものなのである。というのも、それは、神に等しく創造された人間の心に関することだからである。ちょうどイエス様が、「天国は激しく襲われている」と言われたように。たとえ、主イエスが十字架ですべての贖いを完了し、彼を信じる人すべてに天国が保障されたとしても、それが「戦い取る」、「奪い取る」性質のものであることに変わりはない。なぜ、人生において人は、様々な困難に遭遇するのか。それは、何のためなのか。その結果は、何なのか。人生を真剣に生きている人こそが、幸福は勝ちとるものだということを理解するのであり、旧約聖書の約束の地の奪還の歴史は、まさにそのことを表わしているのである。そして神には、そんな人間を助けることが難しかったのである。それからそれから、難しいものと言えば、「信じること」、「赦すこと」、「愛すること」、等々、神にとっては、人にそれらの意味を教えることも、それらを人に体得させることも、共に非常に難しいことなのである。そして、それを実現するために、神は、旧約聖書の歴史を演出されたのであり、またそのようにして、新約聖書における宣教史を導かれるのである。パウロが言っているように、私たちは、「キリストの苦しみのなお足りない部分を自分の体をもって補わ」なければならない。神は、人間を用いて、人類の救いの計画を実現されるのであり、それは、私たちを通してしか実現しないのである。
 以上のことが、キリスト教の一つ高い真理であり、聖書によれば、さらに高い真理がある。そしてまた、さらに高い真理があるのであり、私たちは、その達し得たところに従って、信じ、従い続けるしかないのだろう。本当に、とりとめのない話だが。

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