« 2013年10月6日 | トップページ | 2013年10月19日 »

2013/10/17

第7章 歴史からの撤退

 バルトらによる弁証法神学は、自由主義神学の歴史的イエスへのアプローチの曖昧なところを指摘し、「人と神との無限の質的差異」という信念から、その間を取り持つイエス・キリストという神の行為を基礎にした神学を展開したことで、一応の成功を治めた。しかしそれは、「神の歴史」と「人間の歴史」という、聖と俗を弁証法という理論で接合するという芸当であった。そこで、なんと言うか、何かが足りないというか、十分に気が晴れないというか、そのような感触が庶民的信者の中に、それとなく、少しずつ蔓延していったのではなかったのだろうか。その疑問の正体はなんだったのかと言えば、つまり、自由神学の提案する「史的イエス」、弁証法神学の提案する「信仰のイエス」、それらについては何となく分かった。しかし、「今を生きている私に直面しておられるイエスが実在するとしたら、それはどのようなお方なのか」という「事実上のイエス」という問題が未解決のまま残されていたということであろう。そして、それに答えようという新たな神学的勢力が戦前のドイツにおいて発展し、一般的な注目を浴びることになる。これが「実存主義的神学」である。
 ルドルフ・ブルトマンは、聖書の非神話化を提唱し、使徒たちが宣教として掲げたイエス像を中心に、今を生きる現代人のために聖書を再解釈するというアプローチをとった。その方法論は、強烈な反響と共に、多くのプロテスタント教派からの非難を巻き起こした。しかしそれは、自由主義神学が聖書の中から歴史的イエス像を抽出しようとしたこと、すなわち彼らが、聖書から不要な記事を切り捨て、それらしい所だけから歴史的イエス像を組み立てたのとは異なっていた。彼は、「史的イエス」というリアリティは、そのようにして再構成することは不可能だという。むしろブルトマンは、聖書を全部使うために、それを現代風に再解釈しようというのであり、その際に用いる方法論が非神話化というわけである。そして、救済はもはや、歴史的イエスを通して客観的また物理的にもたらされるものではあり得ず、宣べ伝えられたキリストにより、実存的にもたらされるというのである。この点について、彼は首尾一貫していて、来臨は将来の出来事ではなく、人が宣教に実存的に直面することにおいて、すでに起こったことであるという。つまりブルトマンは、聖書の聖句を切り捨てることはしなかったが、それを再解釈することにより、その中に含まれる神話的と判断される部分の意味を切り捨て、現代的な意味を挿入することにより、宣教の対象としての時代に対応した、ダイナミックなイエス像を構築したのである。それにより、人間という実存がおかれている悲惨な状況に対してイエス・キリストが、より強力なリアリティを持って現前することになる。その出来事が、「宣教」であり、「復活のイエス」だというのある。しかしそれでは、ブルトマンの構成した、このいわゆる「宣教のイエス」は、真正のイエスと言えるだろうか。というのも。彼自身が聖書の中の「宣教」の内容まで再構成してしまっているかもしれないからである。すなわち、ヨハネの福音書は、一冊に綴じられていた書物の紐が解けて、一度ばらばらになったものを拾い集めたので、頁の順番が狂ってしまっているところがあり。それに留意して解釈しなければならないと。しかし彼は、自分の好きなイエス像をでっち上げたのではなく、使徒たちが宣教したイエスこそが、聖書から読み取ることができるもっとも真実らしいイエスだと主張したのである。そこでそれは、歴史上のイエスと必ずしも同じである必要はない。ブルトマンにとっては、イエスが実在したということのみが必要なのである。そしてそれは、さらに曖昧なイエス像への道を拓く可能性を持っていた。
 ブルトマンと同じような立場にいたパウル・ティリッヒの関心は、「キリスト教の公的信頼性が失われていくように見える時代においてキリスト教を意義あるものにしよう」ということであったとマクグラスは言う。ティリッヒによれば、「存在とは、実在的不安によって特徴づけられる離反であり、不信仰であり、傲慢である。存在するものはみな、あるべきかたちではない」のである。それに対してキリストは、その離反を超克する「新しい存在」であり、イエスはその歴史的顕現であった。つまり、救済の根拠は、イエスという存在よりも、その意味するもの、「新しい存在」の上に置かれている。ここに至って、「ナザレのイエスが実在したかどうか」ということすら、もはや本質的なことではなく、むしろ「救済の観念」こそが本質となってしまったのである。
 これまで見てきた流れを振り返ってみると、様々な神学が登場し、互いにそれ以前の神学よりもさらに良いと思われる方法で、イエス・キリストという実像に近づこうとしながら、それを取り巻くようにして、一向に近づいて行くことができずにいるということである。それはなぜだろうか。たぶん、神様に近づく方法は、神学ではなく、「信じること」のみによるということなのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年10月6日 | トップページ | 2013年10月19日 »