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2013/10/06

第6章 弁証法的キリスト論

 第一次世界大戦という危機は、キリスト教信仰にとって、一つの篩いの働きをした。ドイツ神学の立役者たちが、そろいもそろって、当時の皇帝ヴィルヘルム二世とその助言者たちの戦争政策を支持する表明を発表したのであった。それをいぶかしく思ったのがカール・バルトである。彼はこのことにより、それまで自分の尊敬していた神学者たちに失望しただけでなく、彼らの神学であった自由主義にも反旗を翻した。彼は「ローマ書講解」を著し、神と人間の間におかれた溝の深さと、その溝に人間の側から架橋することの不可能性を力説した。それによりバルトは、神を聖なるものとし、罪の中にいる人間との対照性を際立たせた。彼の「神は天にあり、汝は地にある」という言葉は、キルケゴールの「神と人との無限の質的差異」を表現していた。バルトの提唱した神学は、「弁証法神学」と呼ばれる。この「弁証法」とは、「神と人の質的差異」、すなわち「正」と「反」から「合」としての信仰が生み出されるという神学であり、その原理がキリスト論に他ならない。そのようにしてバルトは、近代神学におけるキリスト論の中心的位置付けを回復したのであった。しかし、ここでマクグラスは、「バルトは、神の存在と行為に向けての神学者による服従的方向付けという、キリスト論の原則を首尾一貫させることに明らかに失敗した」と述べている。これは、どういう意味であろうか。それは、バルトのキリスト論によれば、彼の予定論との関係において、「イエス・キリストは選ぶ神であり、同時に、選ばれた人間である。」とされ、「神は贖いの苦痛と代償を全面的に引き受けることを選ばれた。神はゴルゴタの十字架を玉座として受け入れることを選ばれた。神は堕落した人間のすべてを、特に苦難と死において受け入れる。神は人間を贖うために自らを低くし、恥を受けるという道を選ばれた」と言われる。ここから帰結してくるものは、「普遍救済説」である。つまり、もしバルトの神学が、「救いに入れられる人々」にのみ限定したものであったならば、それは聖書と整合していると言えるだろう。しかしバルトは、彼の神学をそのように限定したものだとは考えていなかったのである。ここに、聖書からの乖離のさらに新たなる、そしてさらに強められた形態を見る。それは一見、聖書に忠実である。それは、「神と人の質的差異」を強調することにより、比類の無いほどの敬虔を身に纏う。しかし、ある一点において、それは聖書と異なっているのである。すなわち、万民救済ということにおいて。ああ、なんということだろうか。神への大いなる不従順が、同じ心の大いなる敬虔の影に宿っていようとは。
 この時期に活躍したもう一人の弁証法神学者にエミール・ブルンナーがいた。彼とバルトは、そのキリスト論において異なっている。彼は、「啓示とは、イエス・キリストにおいて我々に臨まれる神との人格的出会いである」と言う。それまで正統主義は、「啓示は命題として与えられるもの」と考えていたし、自由主義に至っては、神を、人間によって自由に探求できる対象として扱う傾向にあった。しかし、ブルンナーは、「啓示において、神は何か、ご自身についての観念を人に伝達するのではなく、出会いにおいて、実に神自身を伝達するのだ」と言うのである。このブルンナーの神学は、一つの必然性を持っていた。それは、自然神学への回帰である。「人間の本性は、神の啓示に対する出会いの結合点を持つように造られている。人間は、アダムの堕罪による荒廃の状況にあってもなお、キリストにおける神の人格的・歴史的啓示に応答する能力を保持している」と彼は語った。この主張にバルトは、怒りをもって反応した。それは、あたかも神が自身を啓示するために助けを必要とするか、または人間が何らかの形で啓示の行為において神と協力するかのように見えたのである。バルトが危機感を抱いたこの自然主義的な考えは、ブルンナーに始まったものではなく、ルターの提唱した「創造の秩序」にも見ることができるし、また神秘主義的な神学一般の出発点でもある。それが自由主義に傾けば、人間存在への賞賛や国家社会の積極的評価等を通じて、文化の重視という偶像崇拝の一形態にも向かいかねない。しかし、だからと言って、そのようなリスクをあえて退けるべきなのだろうか。聖書に、「神は人を、ご自身の姿に創造された」とあり、「あなたがたは、いと高き神々である」と言われた主イエスの言葉は、空しい言葉なのだろうか。私は、そうは思わない。聖書に書いてある通り、「神は、天使たちを助けることはせず、アブラハムの子孫を助けられるのである」。神は、全世界を救うために、諸々の民族の中から、ただイスラエル民族を選んで、律法を与えられた。ブルンナーの言う、「啓示は、すでにそれが何についてのものかをうすうす感づいている人間本性へと向けられる。例えば、『罪を悔い改めよ』という福音の要求は、『罪』についての何らかの観念を人間がすでに持っていない限り意味をなさない」という主張は、しごくもっともなことではないだろうか。
 我々は、これまで見てきた神学の潮流の中に、人間の意識が神へと接近して行く過程とその方法論と意図を読みとるべきだろう。それは、より良き信仰、安定し、迷いと盲従から解放され、自由に神を求め、喜びをもって神に仕える道の探求であった。しかし、人が神に接近すればするほど、そこにまた新たなる危険も、しかもより恐ろしい形態で、そこに横たわっているのを発見した。これこそが「神に近づく」ということであり、かのキルケゴールが言っていた、「神に近づくとは、そのことがそっくりそのまま、神から離れて行くということなのだ。ああ。神の前における人間の無力さよ」という言葉の意味なのではないだろうか。

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