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2013/10/01

第5章 自由主義的キリスト論の崩壊

 19世紀後半に台頭した自由主義神学も、同世紀の終わりには、衰退を始める。この「自由」とは、いったい何だったのか。それは、古い聖書絶対主義からの自由であり、聖書の無謬性への妄信からの自由であった。彼らがそのような行き方をしたのは、それまで完璧に見えたヘーゲル哲学が聖書の真理性を完全に裏付けることができなかったことへの幻滅が一つの大きな理由であった。しかし彼ら自由主義神学者たちも、聖書を完全に捨ててしまったわけではなかった。否、彼らは彼らなりの方法で、真剣に聖書の中に真の信仰を追い求めたのである。それを行うためには、聖書の中に完全に信頼できる記事を見出せなければならない。そして、彼らが選んだのは、共観福音書の中のマルコの福音書であった。そしてこの時代に、たくさんのいわゆる「イエス伝」が執筆された。それは、聖書の指し示す真のイエス像、福音書記者が脚色した人工的なイエスではなく、当時生きていたままの、そして今日の我々にも絶大なインパクトで迫ってくるイエス像の探求であった。
 この自由主義神学が衰えて行った原因は、外部からの攻撃、それも皮肉なことに、より厳格に聖書を批評する神学者たちからの批判であった。その一つの潮流は、ヨハネス・ヴァイスやアルベルト・シュヴァイツァーらの主張であり、イエスの宣教における終末論の再発見である。それによれば、「神の国」は、自由主義神学者らが考えていたように、我々の身近な生活の中にあり、絶えず成長して行くようなものではなく、それは基本的に彼岸にあり、天からの大変動として到来するものである。そして、特にシュヴァイツァーの首尾一貫した、ナザレのイエスの人格と使信についての終末論的解釈の結果として、暗い不安と恐れを伴った、よそよそしい、奇妙な、黙示録的で、まったくこの世的ではないキリスト像が姿を現す。それは、「希望も期待も最後には無に帰するような姿である」とマクグラスは語る。実際、シュバイツァーの言葉によれば、「イエスは我々のところに見知らぬ者として来る」のである。この従来の楽観的な自由主義神学者と打って変わって深刻な、新しい聖書解釈の方法論には、聖書の真理からの乖離としての第二の契機がある。それは、歴史性からの乖離である。自由主義神学者たちは、聖書の文脈から乖離してまで、真実のイエス像を捜し求めた。それは、歴史的に信頼できるイエス像(史的イエス)であった。つまり彼らは、聖書の歴史性を堅く信じていたのである。しかし、上記の新しい聖書解釈の方法論は、この歴史性から乖離を始める。聖書は、歴史的な書物ではなく、初代教会が作り出した宗教的な創作物であるというのである。彼らは、いったい何を求めていたのだろうか。それは、実に「純粋信仰」に他ならない。彼らは、信仰は、歴史や哲学によって基礎付けられるべきものではなく、教理によって基礎付けられると信じたのである。それは、自由主義神学者たちが信じていた、「マルコの福音書の詳細な研究から、信仰の拠り所としての、その独創性、力、人格を明らかに示す史的イエス像が明確に、そしてほんのわずか大胆に、しっかりと描かれ、真に迫った姿で立証される」という確信を、彼ら自身が見事に打ち砕くのを自分の目で見たからに他ならない。それによって、彼ら自身も幻滅を味わったに違いない。なぜなら、彼らもまた、自由主義神学者らと同様、純粋信仰の確固たる基礎を求めていたからである。しかし、彼らの学問的野心は、彼らの信仰心よりもさらに強かったのであろう。
 ああ、今日においても、純粋な信仰を求めるあまり、聖書の中に存在する「不確実性」に我慢ができない輩がいるのではないか。例えば、「愛の神が人を地獄に落とすというようなことがあるはずがない」という考え。「『わたしはすぐに来る』と言われた方は、もうすでに来てしまったのではないか」という考え。「異言や預言は、今はもうない」という考え。等々は、どうだろうか。聖書の中にも、一見、矛盾するようなことが書かれている。そして人は、その真意を究明したいと思う。それは実は、聖書からの乖離の一つの契機と言えるかもしれない。というのは、聖書の中の矛盾がすべて究明されたなら、もはや聖書は必要なくなるからである。聖書の全体が完璧に理解され、説明されることになったら、それこそ、聖書は不要の書物となってしまうだろう。聖書を不確実なものにしておられるのは、神ご自身なのだろう。というよりも、神の真理を人間の言葉に表すと、それは平坦なものではなく、ある立体的なものとなり、見方によって異なる姿に見えるということなのかもしれない。
 上述のような急進的な聖書批評は、エルンスト・トレルチに至って、さらに首尾一貫した宗教史学的考察へと発展して行く。それによると、信仰はすなわち、教会の教えであり、それゆえ、それはもはや完全なものではあり得ない。その時代時代により、現実への対応と反省が繰り返されながら発展して行くものなのである。ここにおいては、もはや「絶対なるものは歴史の彼方にあり、多くの点においてヴェールに覆われた真実である。それは、未来に属し、神の審判と地上の歴史の停止において現れるであろう」。聖書の歴史性から一旦乖離した神学は、純粋信仰の追及を経て、再び歴史に回帰しようとするのである。しかし、それはまたなんという倒錯した回帰の形態であろうか。というのも、その教理は、「歴史における受肉」という概念を除外するのであり、自らの教理により、そうせざるを得ないのである。ここに至って、キリスト教は、真剣な歴史の探求から離れ、頭脳だけの、夢物語的な存在になってしまったのではないかと疑いたくなる。しかし、その人間を再び、有無を言わさず、歴史の現実に連れ戻すようなことが起こる。1914年8月1日、第一次世界大戦が勃発したのであった。

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