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2013/09/17

第3章 へーゲル学派

 へーゲルは、19世紀における最も重要なドイツの哲学者であり、哲学、神学、政治思想の発展において、現代にまで及ぶ大きな影響を与えている。しかし、マクグラスによれば、彼の哲学の目的は、「人間と神との間に和解をもたらす」ことであり、その際の中心概念は、「受肉に関する教理」である。それ自体は多くの宗教の教理に見いだされるが、そのうちでキリスト教の教理だけが精神との関係において現実的形態でこれを表現しているという。つまりへーゲルは、彼の哲学と神学の橋渡しをしようともくろみ、その媒介として「受肉」という表象を発見し、相手としての宗教にキリスト教を選んだのであった。その目的は、宗教を単なる主観的、概念的なものから、それをもってこの世界を変革し得るものへと発展させることであり、同時に哲学をも、果てしない論理の迷宮から解放し、それに確固とした始まりと根拠とを据えるためであり、また一方で、シュライエルマッハーの建てた、どことなく主観的な神学の補完でも有り得るものであった。しかし、彼の批判的後継者(へーゲル左派)たちは、へーゲルが基礎をおいた、受肉に対応する史実がイエスその人であるという公理に必然性を見い出すことができず、返って歴史的批判的研究によるアプローチをとることにより、よりリベラルな神学の興隆に道を拓くこととなった。すなわち、彼らの目的は、実はへーゲルが試みた宗教という客観への意識の主体的な関与を先鋭化することであったのだが、結果としては、かえってその限界を鮮明化することになってしまった。
 そして、そのような背景から、ルードウィヒ・フォイエルバッハのような宗教への蔑視者が生まれて来ることになった。彼は、「人間が神々を造り出したのであり、それは人間自身の理念化された願望や欲求や恐れなどの概念を体現したものである」と言った。しかしマクグラスは、「フォイエルバッハが単に神を自然に引き下ろしただけだと言うならば、その重要性についての評価を妨げることになる。返ってその著作の永続的重要性は、宗教的概念が人間の意識に生起する仕方についての詳細な分析の中にある」と言う。つまり、「神を自然にまで引き下ろす」のは、ただ未信者のみのなせる業ではないとしたら、すなわち、私たち信徒も、ときとして無意識に、神に自分の都合の良い願いばかりをしてしまうとか、神をそのような身勝手な祈りを聞き入れてくれるような対象として認識しているような、あるいは、こともあろうに、そのような祈りに当然応えざるを得ないような人格と思い込んでいるようなことがあるならば、そのような曖昧な信仰の先鋭化のためには、それも大いに有効ということが言えるかも知れないということなのである。加うるに、神が一つの人格であるという反リベラル的、正統主義的な神観に立つならば、神を信仰の対象として把握するのは、他ならぬ信仰者の人格なのであり、さらに、自己が成長途上にある自我と比較して、客観的に把握困難な神の人格を、どの程度適切に把握できるかということを反省てみる必要もあるだろう。そして、そのような用途においては、フォイエルバッハ的な省察は、それが信仰者の観点からは容易に生じない類の反省であるがゆえに、むしろ真剣な信仰の反省において重要ということにもなるであろう。
 さらにまた一方において、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である。神によって人間を知り、反対に人間によって神を知るのである。この二つは一つである。人間にとって神であるものは人間の精神・魂であり、人間の精神・魂が神なのである」と彼が語るのを聞くとき、それは必ずしも神への冒涜とは言い切れないかもしれない。神が人間をご自身の似姿にお造りになり、さらに自ら人と成られたということを最深の畏れを持って受け止めた上で、ただいたずらに待っているだけの信仰から進み出て、自己の意識に働きかける神の命令に最速で従えるようになることを希求する信仰者は、そこに神との関係における新しい態度を学び取ろうとしないだろうか。
 しかし、そのようなキリスト信仰からのもしかしたら有益なアプローチをよそに、フォイエルバッハの神学は、その当然の帰結として、唯物論へ突き進む原動力を持っていた。カールマルクスは、フォイエルバッハの「神は人間の意識の産物である」との主張をさらに推し進めて、「神とは、結局は、人間の意識に影響を与える、ある一連の社会・経済的状況の結果である」という理論をつむぎ出したのであった。

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