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2013/08/22

第2章 F・D・E・シュライエルマッハー

 ルター等による宗教改革は、当時のカトリック信仰の堕落に抗し、「聖書のみ」、「信仰のみ」という旗印を掲げて、純粋信仰への道筋を提示した。しかし、ただ「聖書のみ」と主張しただけでは、それをどのように実現するかということが未だ明確になっていない。つまり、個人がどうやって、どのような心構えでそれに取り組むのかが示されていなかったのである。そこで、啓蒙主義が現れて一つのアプローチを示すことになったが、それは、考えられるもっとも急進的でせっかちなアプローチであった。そこで、それがひとたび社会に実践されるやいなや、フランス革命における恐怖政治のような状態となり、この極度に理性的なアプローチが、実は期待していたほどには人間性に寄与するものではないことが明らかになってきた。そこで、これへの反動として、もう少し慎重な態度、つまり歴史や経験を重視する立場が提唱されてくることになるのだが、この方法論が人間理性とどのように調和するのかが一つの課題であった。というのも、経験そのものは、実は一つの知識でしかないので、それが理性に取り込まれることにより、一貫した観念にまで高められなければ、いまだ信仰とは言えないからである。それは、カントにおける生得観念の限界性の認識(純粋理性批判による)により拍車をかけられ、経験主義という一つのアプローチにまで具現化した。しかし、経験の分析からすべてが判断可能という考えは、理性によりすべてが解決可能という啓蒙主義の態度をどこか思い出させるようなものであった。そこで、これに不安をもった人々は、もう一つ夢のある、人間の可能性をさらに開花させるような方法論を捜し求めた。ロマン主義の鼓舞する想像力は、まさにこの要請に応えるものであり、人間の理性の限界を超越するもの、そして、理性の限界を乗り越え、有限を通して無限を追求する可能性を持っていた。ロマン主義の原理は「感情」であり、そこに、啓蒙主義や経験主義と比べて、信仰への一段階高い積極性を持っている。それは、信じる対象を求め、美化し、それと同化することを願うと共に、そこから自己を変革するための無限の可能性を汲み取ろうとするのである。
 シュライエルマッハーは、このロマン主義に深く根ざした神学を展開した。彼は、キリスト教信仰は、主として概念的なものではないと主張する。大切なのは「神への全面的依存の感覚」であり、具体的には「贖いの経験」である。この自分の上に成された神の業がそれを成してくださった対象、すなわちキリストと感情的に結びつき、第一の宗教的真理を形成する。そして、それに比べれば、教理はむしろその二次的表現と見なされたのである。その中心は、神にして同時に人であるナザレのイエスである。彼は、啓蒙主義の主張するような、単なる道徳的真理を示した方ではなく、完全なる人間の神意識の唯一の理想的な例であり、宗教的理想である。と同時に、彼は自らをそのような宗教的理想として提示する能力を持っている。すなわち、彼こそが真正なる神と人との仲介者なのである。ここにおいて、信仰の中心に「キリスト論」が据えられることになり、悪魔にインク壺を投げつけるようなこととは違う、実存としての人間の立場に立ったキリスト信仰の基礎が確立したのである。それを裏付けるように、彼シュライエルマッハーは、彼のキリスト論を基礎に、この信仰から外れるものすなわち「異端」というものを彼流の方法で明確に定義したのであった。

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