« 2013年8月17日 | トップページ | 2013年8月22日 »

2013/08/19

信仰の到達点とは?

 『分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな』とは、一休禅師の作と伝えられる道歌だそうである。宗教の入り口はいろいろ違っていても、最終的に到達するところは同じであるということを説いているという。しかし私は、これをキリスト教諸派に適用してみたいと思う。キリスト教の中に、たくさんの教派があることは、たぶん良いことなのだと思っている。しかし、それらは、一つのことを目指しているに違いないと思う。それは、一言で言えば、「キリスト」である。しかし、こう言っただけでは、何の解決にもならない。ここで考えたいのは、どうやってそこへ到達するのかということと、到達点としてのキリストとは、いったい何なのかということである。
 私は、日本キリスト教団で洗礼を受け、その中の改革長老派の教会で育ち、現在はウェスレイ派の教会に席を置き、カリスマ派のビジネスマンフェローシップに属している。その間、信仰の成長を目指して、さまざまな追及や体験をしてきた。その中で、一番インパクトがあったのは、聖霊のバプテスマを受け、異言を語り始めたことである。
 異言は、一つの神体験だと思う。それは、自分では考えつかない言葉であり、そもそも考えて語っているのではなく、その暇もないうちに口から出る言葉で、これは、聖霊が語らせてくださっていると言われている。これは、私が知っているどんな敬虔な祈りよりも、なおいっそう私を神に近づけるように思える。そこには、何も自分の考えを入れる余地がない。しかし、語っているのは、私であり、いつでも語るのをやめることができ、また再び語り出すことができる。今日は、調子が悪いから語れないということは決してない。いつでも私が語りたいときに語ることができるのだが、私が考えて語るのではなく、ある衝動によって自動的に語っているのである。異言そのものは、静かなものから時には激しいリズムとダイナミックスを伴うものまで様々で、その衝動も必ずしも激しいものではなく、無音の静けさの中にいるとさえ思われることもある。その言葉は、いつも違っていて、二度と同じことを語ることができないが、また同時に、同じ言葉が再び、何度も口から出てくることもある。この現象の中に、神秘的な神体験のすべてが含まれているように思う。それは、私にとって一つの奇跡であり、その意味では、私はいつでも神の奇跡を体験することができる。
 異言を語り出してから、私の信仰生活が根底から変わってしまった。まず、聖書が愛おしくてたまらなくなり、おもわず両腕で抱きしめたこともある。どこを読んでも、深い感動があり、いままで分からなかった意味が、自分のことのように理解できるようになり、もはや誰からも教えてもらう必要がないし、信仰書等も不要になった。それまでは、決して読もうと思わなかったレビ記を涙を拭きながら読むようになった。そして、聖書のどこにもキリストご自身が記されていることが、つまり、聖書は神の言葉、キリストであることが分かった。だから、異言は私にとって奇跡であり、このことにより、少なくとも自分自身に対しては、私は神を知っているとさえ言える。賛美が神への捧げものになった。神を畏れるということが、これまでとはまったく異なる意味を持つようになった。神の主権と裁きと愛が矛盾しないものであることが分かった。そして、これらのことは、カリスマ派以外の教派からは、提供されなかったものである。少なくとも、それまでは、愛の証しに神様から靴をもらうなどという個人的な経験をしたことはなかった。家庭の中で、奇跡的な癒しなども起こらなかった。そういう意味では、私の信仰は、本質的にはカリスマ派なのだろう。そして、自分では、この個人的な神体験は、ほんの入口だと思っている。私がその気になれば、そのように行動すれば、圧倒的な神体験が、手の届くところにあると信じられる。それは、私がそれを行うかどうか、自分の生活に、もう一段高い祭壇を築けるかどうかに掛かっているのであり、それは、決して困難なことではなく、すべてが私個人に掛かっているのである。
 それでは、それらのことの到達点は、どこに向かっているのだろうか。それは、それは、神のことば聖書である。私は、遠藤周作の「沈黙」という作品を読んで、これを理解し、そのことをこのブログの記事にも書いた。再度、信仰の到達点が神のことば聖書であるということは、どういうことかと言うと、私の場合には、上記の個人的な神体験がすべて無に帰するということなのである。つまり、そのような神体験を前提とせずに、神のことば聖書を文字通り信じるということであり、それがすべてになるということであり、上記のような私の個人的な神体験は、すべてそのための通過点、助け、ステップに過ぎないということなのである。そのとき、私が神のことば聖書を信じるのは、何かの体験によるのでも、ある信頼できる人から教えられたからでも、ある権威ある書に薦められているからでもなく、理由などは何もないのである。そのとき、私は、一人の狂信者であり、それ以外の者ではない。それが、信仰の父アブラハムの足跡を踏む者なのである。かつてアブラハムほどの狂信者がいただろうか。自分の一人子を生贄にするとは、そして、父なる神もそのようなお方なのである。そして、それは、私たちもそのようになるためなのである。そして、そして、・・・・・・・。すべての教派の到達点も、やはりそこにしかないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年8月17日 | トップページ | 2013年8月22日 »