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2013/06/27

走ることへのこだわり

Sr400 「走る」ことは、歩くことからの不連続な延長だ。歩きながら足を速めていくと、やがて両足が同時に宙に浮くようになり、競歩などでは反則とされる「走る」という動作になる。しかし、その状態へは、連続して移ることはできない。ある状態を境に、歩くことから走ることへと飛翔するのである。これは、信仰も同じように思う。「信じる」という決意を境に、新しい命へと飛翔するのである。「走ること」には、そのようなロマンがある。それは、「飛翔」なのである。
 そのようにして走るならば、当然に風を受ける、そして、もっと早く走れば、やがて風は壁のように迫ってくる。スロットルをひねると、突然に体が後ろへ置いて行かれるような加速度を受ける。それに耐えるために状態を前に倒し、両足でタンクにしがみつく。ブレーキをかければ、前につんのめりそうになるので、足で踏ん張らなければならない。カーブを曲がるときには、遠心力で外に投げ出されそうになるので、腰を落として車体を内側に倒し込む。雨が降ってくれば、濡れなければならないし、冬になれば、体が寒く、手もかじかむ。それらはみんな、道を走ることの一部であり、どれが欠けても、道を走ることにはならないのだ。しかしあるとき人は、自動車というものを発明した。走ることの安全を追求しつつ。しかし、屋根がついたり、タイヤが4つになったからといって、はたして交通事故が減ったのだろうか。いや、それは返って、走るということの意味を喪失させたのである。そして、走ることから段々と現実的な要素が減って行き、ついに移動するということだけが残された。外界から遮断され、音も十分に聞こえない。移動するリビングのような空間がそこに出来上がった。それは、自分だけのための安全と言えよう。その分、外界からの信号は捕らえ難くなり、誰が考えたのか、足という不器用な器官に、アクセルやブレーキの微妙な操作を行わせることにしてしまったので、それがまた非常なストレスを生むこととなった。
 信仰もそうならないことを願う。社会でキリスト者として生きるときに、まるで屋根つきの4輪車に乗っているような信仰生活だったとしたらどうだろう。雨が降っても濡れず、風にも翻弄されない。太陽の眩しさや熱からも守られ、外の音も十分に聞こえない。その代わりに、お気に入りの音楽をかけ、クーラーを効かせて、シートに寄りかかったままに目的地に到着する。しかし、ちょっとまってくれ、目的地へ着くことと同じくらい、そこへ行く過程も大切じゃあなかったんだろうか。

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聖霊のバプテスマについて

 聖霊のバプテスマは、主にカリスマ派と言われる教派において、信仰生活の重要な要素となっている。それは、通常、異言を伴うものである。しかし、聖霊派と呼ばれる教派の中にも、異言を除外する派もあるようであり、さらに福音派、リベラル派に至っては、聖霊のバプテスマという概念自体を否定することも少なくないようである。そこで、ここでは、聖霊のバプテスマとは、どのようなものかをとりとめもなく考えてみた。

 まず、水のバプテスマ(洗礼)と聖霊のバプテスマとの関係であるが、それらが同時に与えられるとする説と、それは別々に与えられるとする説があるようだが、以下の聖書の記事を読む限り、別々に与えられるということが明確である。

 「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」(使徒 8:16~17)

 「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。(使徒 19:2~6)

 つまり、いずれの場合も、水の洗礼の後に、手を置くことにより、聖霊のバプテスマを受けている。そこで、聖霊のバプテスマが水のバプテスマや決心または信仰告白と同時に与えられるとする説は、聖書の記述を無視した勝手な解釈と言えよう。

 次に、聖霊のバプテスマと異言との関係であるが、聖霊のバプテスマには、必ず異言が伴うとする考えと必ずしも伴わないとする説があるが、聖書の次の記述からすると、必ず伴うとするのが自然のように思われる。

 割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。(使徒 10:45~46)

 これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。(使徒 19:5~6)

 しかし、聖書の次の記述は、これを必ずしも支持しない。

 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。(第一コリント 12:30)

 そこで、「異言を語ること」は、聖霊のバプテスマを受けた徴となるけれども、異言を語らなくても、聖霊のバプテスマを受けていることは有り得ると考えられる。

それでは、異言を語ることは、どのような意義を持つのであろうか。それについては、以下の聖書の記事が参考になる。

 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。(第一コリント 12:10)

 異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。 ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。(第一コリント14:2~4)

 これらのことから、異言は、自分の徳を高めるためのものであることが分かる。つまりそれは、祈りやデボーションと同様に重要なものなのである。預言については、ここでは言及しないが、聖書をどのように解釈しても、異言が無用なものであるとは言えないことが分かる。返って、次のように書かれている。

 それゆえ、わたしの兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。(第一コリント 14:39)

 しかし、異言を語ることを許すときに、同時に秩序への配慮も必要であることが言われている。

 ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかがはいって来たとき、彼らは、あなたがたを気違いだと言わないでしょうか。(第一コリント 14:23)

 そこで、少なくない数の教派において、異言の存在を否定または無視するか、それを語ることを禁じているという実態がある。実際、教会で異言を語ることを許せば、それにまつわる多くのことに配慮する必要がある。パウロが言っている次のようなことである。

 兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会ではだまっていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。(第一コリント 14:26~30)

 しかし、それにも関わらず、パウロは、異言や預言を教会の中で禁じているのではなく、返ってそれを語ることを奨励しているのである。そこで、教会もそれを禁じてはならないばかりか、返って奨励しなければならないと言えるだろう。そして、その結果として生じてくる、面倒な状況に対応しなければならない。そういう努力をして、なおあり余るほどの祝福がそこにあるのである。さらに、それらは、神からの賜物であるゆえに、それを軽んじるものは、それを与えられた神ご自身を軽んじることにもなるのである。

 最後に、他の霊的体験との関係であるが、一般にきよめ派と呼ばれる派には、「聖化」とか「きよめ」とか呼ばれる体験がある。これは、聖霊のバプテスマとどのような関係にあるのだろうか。私の考えは、それらは、同じものであるということである。その理由は、聖霊のバプテスマは、聖書に記された、れっきとした事実であり、神からの尊い賜物である。そして、「聖化」とか「きよめ」という霊的体験は、聖書に明示的には記されていない。それを教職者に質問してみたところ、ギリシャ語で新約聖書を読むと、ギリシャ語独特の言葉の時制により、そのような教義が導き出せるとのことであった。つまり、日本語の聖書を読んでいても、それが書かれていることが分からないのである。もちろん、次のような聖書の箇所は、日本語の聖書においても目に付く。

 イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。(レビ記 19:2)

 しかし、これは霊的な体験ではなく、神の戒めである。それに対して、「聖化」とか「きよめ」と言われる体験は、それが起こったことが客観的に分かるような実際の体験なのである。そこで、仮にそのようなものが実在するとしたら、それらは、「一つのもの」でなければならないと私は信ずるものである。それが、いくつもあっては、紛らわしくて仕方がないし、神が唯一の神である限り、その神への接近としての、信仰の根幹たる霊的体験が何種類もあるというようなことは、どう考えても有り得ないことであろう。つまり、それらは同じものである。そして、聖霊のバプテスマがすでに聖書に明確に記されている、実在する霊的体験であるのだから、「聖化」とか「きよめ」と言われるものは、その異なる見解と言わざるを得ない。極端なことを言えば、聖霊のバプテスマがあるのだから、「聖化」や「きよめ」は、無くても良いとさえ思うのである。それらは、異言を禁じたことにより生じた、神へのアプローチの二次的な形態なのではないだろうか。

 まあ、「とりとめのない話」という、このブログのカテゴリーの性質を借りて、言いたいことを言ってしまったという感触も強いが、上記のようなことに起因する混乱の弊害を最も被っているのは、一般の信徒たちであると思うから、ここで、上記のようなことを言っても、そんなには、悪いことにはならないと思うのである。

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