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2013/06/26

真に存在するもの

 聖書には、「見えるものは、見えないものからできた」と言うことが書かれている。そのように、神は見えるものを見えないものから創られた。これは、神だけが行うことのできる業である。神は、無から有を呼び出されるのである。それに対して、悪魔は、有から無を作る。つまり、この世界に在るものから、無きに等しいものを作るのである。そして、悪魔が行うことは、すべてその類のものである。だから、私たちは、それらが無に等しい、存在価値のないもの、むしろ存在しないものであることを肝に銘じる必要がある。たとえば、「恐れ」。これは、何も有益なものを生み出すことがないばかりか、他の良いものを破壊する。「恐れ」それ自体に何か存在の根拠があるわけではない。それは、人間の心の中に出現し、すべての良い思いを打ち砕き、無きに等しいものにしてしまう。そのように悪魔が作り出すものは、破壊でしかないのである。同じようなものに、「欲望」、「羞恥心」、「憎しみ」、「絶望」、等々があるが、いずれも実体のないものである。私たちは、悪魔が作り出すこれらのものに対して、はっきりと、「無」という判定を突きつけなくてはならない。それらは、実体のないものであり、存在価値のないものである。それらは、人間の心に生まれ、実在するように思えるのだが、実はその実体は、「無」である。その証拠に、それらからは、何も良いものが生まれて来ないばかりか、返って良いものを破壊する。それらのものを注視し、それらにこだわり、執着するならば、その人の人生は、それらの実体である「無」と等しいものとなる。
 私たちは、この世界を生きるときに、いま自分の心にあるものが、神から来たものすなわち「有」なのか、悪魔から来たものすなわち「無」なのかを見分ける必要がある。もしそれが悪魔から来たものならば、それは「無」であるから、「それは存在しない」と認識し、そのように取り扱う必要がある。たとえば、あなたがもし、ある出来事をきっかけにある人に憎しみを抱き始めたならば、その「憎しみ」は、確実に悪魔から来たものだから、あなたは、それに対して「無」と宣言する必要がある。なぜなら、あなたは実体のないものに執着しているからである。その「憎しみ」は、あなたの心の中だけにあり、そこにあるとき突然に発生し、あなたの意志次第で一瞬にして消えうせる運命にあるもの、すなわち「無」なのである。あなたが、それを心に抱くいかなる理由もないし、それを持ち続ける義務もない。それは、もともと存在しないもの、悪魔が作り出したイミテーションであり、「無」そのものなのである。そして、あなたがそれを認識し、それに対して「無」と宣言するとき、その悪魔の作り出したイミテーションは、実体のないことを現し始める。そして、速やかに消え去ることだろう。なぜなら、それは、最初から存在しないものだったのだから。人間は、神の似姿に創造された神の子である。それゆえ、いかなる人に対しても憎しみを抱くということは、有り得ないことなのである。それをさせるのは、悪魔であり、それが有から無を作るということである。
 一方、私たちには、神から与えられている使命がある。それは、有から有を造ることである。私たちは、神の創造されたものを使って、神に栄光を帰するのであり、それが有から有を造ることである。私たちは、神の子どもであり、神の創造に倣い、良いものを造り出し、神に栄光を帰するのである。

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罪からのきよめと聖霊

 私たちを罪から解放するものは、聖霊である。もし、聖霊がおられないならば、私たちが罪に打ち勝つ可能性は存在しない。私たちが自分の罪を告白して洗礼を受け、イエス・キリストに従い行く決心をし、きよく正しく生きようと願っても、私たちの生まれながらの心は罪に犯されており、罪に打ち勝つことは決してできない。しかし、イエス・キリストは、聖霊を与えることを約束された。聖霊が与えられるとき、私たちにある可能性が与えられる。それは、罪に従わず、神に従うという可能性である。聖霊が、罪から神の御心へと導いてくださるのである。だから、私たちは、自分に聖霊が与えられているということを明確に認識し、そのお方に従うことを意志しなければならない。
 聖霊は、私とは異なる存在であり、外から私に働きかける。聖霊に従う第一歩は、聖霊と自分を区別し、その存在を尊重することである。聖霊は、雰囲気や教義や自分の思い、ひらめきなどではなく、生きておられるまことの神である。しかも、霊として、この世界にやってこられたお方であり、礼拝の対象である。そのように聖霊の存在を意識した後に、次に、聖霊が、あなたの心に語りかけられる方法を知らなければならない。まことに不思議なことだが、聖霊は、あなたとのコミュニケーションのために、あなた自身の心を用いられるのであり、聖霊ご自身の思いをあなた自身の思いとして形作られるのである。それは、どのように、私自身の思いと区別することができるのだろうか。それは、まず、それが外から来たということであり、あなたが自分で考え出した思いや考えではないということである。つまり、それは、あなたの知識や置かれている状況とは、まったく関係がなく、あなたの心に与えられる思いなのである。それが聖霊があなたの心にそっと置かれた思いであることを知るためには、私たちはこの世界のすべてのことに背を向けなければならない。自分の心の中を良く見回して、自分の置かれている状況や、これからの計画や、予定、戦略、気がかり、義務、責任、懸案、願望、恐れ、わずらい、怒り、恥じらい、気後れ、その他、この世界に存在するすべての思いに対して、意識して、勇気を持って背を向け、そこから目を決然と背け、さらにそれらに起因して生じた自分の心にあるすべての二次的な思いさえもすべて投げ捨てたとき、その後、あとに残されたもの、それこそが聖霊があなたの心に置かれた思い、すなわち聖霊の導きである。そのようなことを悪魔は、決して行うことはできない。悪魔が行うのは、この世の思い煩いにより、あなた自身の罪の心を動かして、悪しき考えを起こさせることであり、それはあなた自身の思いであり、この世のものである。しかし、聖霊は神であるから、無から有を創り出される。それは、何ものにも起因せず、何ものもその原因となることはない。それは、直接に神から来るからである。そして、その思いは、神のことば聖書と完全に一致する。
 そのように、日夜、聖霊の語りかけに心を向け、それを認識し、従うことを心がけることにより、自分の中のこの世的な思いや、それから発する二次的な思いをすべて退けてしまわないでも、段々と聖霊の語りかけを認識できるようになってくる。それは、イエス・キリストが言われたように、「羊は、羊飼いの声を聞き分ける」からである。そして、イエス・キリストは、聖霊を通して、あなたを養われる。その言葉がキリストの言葉であることを確証するために、哀れみと慰めと愛と希望によって、あなたの心を満たされるのである。そして、そのときから、あなたは、あなたの心の王国の勇士となり、その王国をキリストが治めるようになる。旧約聖書を聖霊の導きによって読むならば、あなたの心の王国において、あなたがどのような勇士であるか、そして、キリストがあなたにとって、どのように誉れある、気高い王であるかがあなたに分かるようになる。そして、あなたは、生涯、キリストに忠実な僕とされるのである。

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