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2013/06/23

キリスト教というもの

 キリスト教とは、どのような宗教なのだろうかと最近考える。それは、「唯一つの真正な宗教で、天地万物を創られた真の神を、イエス・キリストという完全な姿で啓示している宗教」というのが正統派キリスト信徒の立場だろう。しかし、それを世の人にどのように伝えたら良いのか。上記のことをそのまま伝えた場合、聞いた人は、それを「福音」と受け取ることができるだろうか。むしろ「裁き」と受け取るのではないだろうか。というのも、その言葉を聞いた人は、まだ信じていないので、救いに入っていないと共に、その福音によれば自分は滅びる者であることを認識せざるを得ないからである。でも、呑気なクリスチャンは、「自分はそんな裁きを宣言するつもりはない。あなたが信じれば、天国はあなたのものであり、この救いは、すべて信じる者に無代価で与えられているのだ」と主張する。しかし、この「もしあなたが信じれば」という言葉は、「もしあなたが信じなければ」ということの裏返しである。そして、その結論は、モーセが申命記で語ったと同じ「祝福と呪い」なのである。「私は、あなたの前に祝福と呪いを置く。あなたは、そのどちらかを選ぶしかない」と言っているのと同じなのである。そして、キリスト者が福音を宣べ伝えるとき、この「祝福と呪い」をセットで宣べ伝える以外になく、「祝福」だけを取り出して宣べ伝えれば、「異端」となり、「呪い」だけを取り出して宣べ伝えれば、「カルト」となるのである。
 それでは、いかにしてキリスト教は、「愛と恵みの宗教」で有り得るのか。しかし、そもそも、キリスト教が「愛と恵みの宗教」とは、いったい誰が言ったのか。聖書のどこにそれが書いてあるのか。「神は愛である」と確かに書かれている。しかし、「キリスト教は愛と恵みの宗教である」とは、聖書のどこにも書かれていない。返って、聖書の最後にあるヨハネの黙示録には、「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」と記されている。キリスト教は、「愛と恵みだけの宗教」ではない。言うまでもないが、「愛の神」は、同時に「裁きの神」であり、それは、旧約聖書から新約聖書に移っても変わることのない一貫した教えなのである。それでは、いったい何が変わったのか。「律法による不完全な救いが、キリストの贖いによる完全な救いに代わった」のである。救いは、キリストによって完成された。アダムによって失われた人間の「いのち」が回復される完全な方法が提供されたのであり、そのために、イエス・キリストを救い主として信じなければならない、というのがキリスト教の教えなのである。
 そこで、これらのことから言えることは、福音を宣べ伝えるのに、新約聖書だけをもってするのは、不可能ということである。人が不幸な現実の中にあり、キリストの救いを必要とするのは、実はその人の「いのち」が失われているからであり、その原因が、「原罪」にあるということが示されるまでは、その人にキリストの救いの必要性が分からないからである。というのは、キリストの贖いは、「罪からの贖い」であり、それの根拠は、旧約聖書に記されているからである。そもそも、人がキリストを受け入れるのは、自分の罪の贖い主として受け入れるのであり、その背景には、「裁き」があり、「裁き」はまさに旧約聖書の事柄なのである。しかし、だからと言って、福音を語る前に、相手に創世記からの一連の人類の歴史のダイジェスト版を語る必要はない。語るべきことは、「人間の罪とその報酬としての裁き」についてであり、それこそ旧約聖書の教えていることである。以上のことを語る人は、どのような人だろうか。彼は、「愛と恵み」を語る人ではない。「祝福と呪い」を語る人、モーセその人なのであり、裁きを告げるエリアのような預言者なのである。この二人は、高い山の上で現れて、「愛の人」キリストと共に、受難の意味について話し合っていた。
 そこで、ここまで書いてきて、一つの結論に近づいてきているように思える。それは、「キリスト信徒に福音を語ること」の危険性である。「すでに救われている者に向かって福音を語ること」、それはいったい何を意味するのか。それは、ちょっと茶化した言い方をすれば、「あなたは、もしかしたらまだ、完全に救われていないかも知れないから、もう一度福音のおさらいをしなさい」と言っているようなものかもしれない。しかし、戦慄すべきは、むしろ上記のことからの帰結である。それは、「すでに救われている者」、「罪を贖われた者」に向かって、福音を語ることは、「恵みのみの福音」、「裁きなしの福音」すなわち、「異端」となりかねないということである。「そういえば・・・」と思い当たることがないだろうか。そのようなものを聞かされるくらいなら、むしろ眠っていた方がましであろう。キルケゴールが言っていたことは、そのようなことなのである。すなわち、『神=人の教説が絶え間なく説教の対象となされることによって空虚なものにされたということである。その結果神と人間との間の質的相違が、最初は貴族的に思弁的に、次に大衆的に大道と裏町で汎神論的に止揚された』。「裁きなしの福音」とは、そのようなものであろう。
 今日の日本で、キリスト教の低迷を嘆く声が絶えない。そして、その背景に、上記のことがあるように思えてならない。「裁きなしの福音」を聞いた信徒が出て行って、「裁きなしの福音」を語る。それがキリスト教の宣教であろうか。信徒が語る証しは、自分が聞いた「福音の焼き直し」ではなく、自分に神から直接に与えられた恵みと、福音を信じない者への裁きでなければならないのである。

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