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2013/02/23

召命の必要性

 若いころは、ずっと人生に悩んでいた。それは、高校1年生ごろから始まり、いつ終わるとも知れずに、心のあえぐような毎日が続いた。恋もしたし、アルバイトや2年間の浪人生活、泊り込みの新聞配達をしながらの予備校通い、その後の大学受験合格。しかし、憧れの大学時代にも悩みの晴れることはなかった。3年生の冬(1年落第したので、実際は4年目の冬)にキリスト教会で洗礼を受けた。精神の救いに与り、根本的には心が落ち着いたのだが、今度は、信仰の悩みが始まった。就職をして、結婚してもまだまだ悩んでいた。この悩みは、どこまで続くのかと思った。
 今になって考えれば、あの悩みは、自分の道を自分で探していたことによるものだったと思う。しかし、自分の道を自分で探さずに、だれが探してくれるのだろうか。その点、クリスチャンという人種は、奇妙な人々で、神様がそれを与えてくれると主張する。でも、良く観察すると、実は自分で考えて決めているようにも思えてくる。具体的には、自分の考えた中から、祈ってみて一番それらしく思える道を選んでいるようにも思えるのだ。それが、人によると、「示された」とか「与えられた」という表現になることがある。中には、「神の声が聞こえた」とか「その道だけが心から離れなくなった」とか言う人もいるし、「それ以外の道が閉ざされた」とか「その道に進む助けが不思議に与えられた」とかいう人もいる。しかし、それらが本当に自分の心の産物でなく、神から来たものであるかどうかは、実際にはその人だけにしか分からないのだろう。そうだとすれば、客観的な判断基準は、何もなく、やはり最後には、自分の心が決定するものと言えるかもしれない。神の導きとは、実際はこのように微妙なものであり、結局はそのような中で、人生の分岐点に一つの道を選択しなければならないのが人生なのではないだろうか。
 それでは、今の自分は、どうなのかと言うと、なにかとても晴れ晴れしている。それは、「自分の道は、これしかない」と言えるところについに辿り着いたからである。しかしそれでは、やはり自分で自分の道を決めているのではないか。確かにそうも言えるかもしれない。でも、以前と違うところは、自分が考えたいくつかの道から、祈ってそれらしい道を選んでいるのではないということである。具体的にどうしているのかと言えば、自分の歩んできた道を振り返って、総合的に考えて、神様は自分に何を望んでおられるのかということを自分の頭で考えるということである。その際、自分の好みは二の次にして、まず神様の立場に立って考えるということである。これまでに神様から不思議な恵みによって与えられたもの、拓かれた道、受け取ってきた思い、自分の性格、得意分野、持っている技術や資格、財産、家庭、会社、生きている社会、友達、知り合い、聖書の記事、教え、教理、祈りの答え、それらを全部総合して、これからの人生を神様は、どのように生きなさいと言っておられるのかを自分の頭で良く考えるということである。そのとき、一つの道が見えてくる。時には、少し時間をかけて、祈って求めることが必要かもしれない。それに気づくまで、しばらくの時間が必要かもしれない。でも、それは与えられる。神が生きておられ、いままで私を導いて来られたのなら、必ずそれは与えられると思う。しかし、私の場合、その実現の為には、今後、多くの難関を突破しなければならない。ここに、一つの真理が見えてくる。それは、旧約聖書に、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」(伝道者の書 7:14)とあるように、それが本当に神の示された道であるかどうかは、後になって見なければ分からないことがあるということである。だから、いま私が選んでいる道が、本当に神様の与え、示された道であるかどうかは、それが実現した後でなければ、本当には分からないのだろう。いや、たとえ実現したとしても、厳密には、それが本当に神の与えた道かどうかは、私が死ぬときまで、つまり、私の人生の総決算まで分からないのかもしれない。しかし、一つだけ言えることは、今は確信があり、それが進む力になっていることである。そして、それが実現する前にこれを書いているのは、その確信によっているのである。何人も、それ以上に進むことはできないのだと思う。だから、信仰が必要なのだろう。そして、以上のことを納得した上で、自分の召命を神から受け取ったと信じるならば、それは、その人が神との一つの関係を獲得したと言えるのではないだろうか。
 あああ、また、とりとめのない話になっちゃったなあ。

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美しい国

Dsc00059 私の住む埼玉県は、「彩の国(さいのくに)」と銘打っている。たしか20年くらい前に行われた埼玉博のころからそう呼び始めたように思う。最初は、なんだか名前負けで、さえない呼称だと思っていた。でも、道を走るようになってから、野山が輝いて見える。この日も北風が吹き付けるとても寒い日だったが、それも全然気にならないほどに、心は興奮していた。真冬の枯れ木のにぎわう野山でさえ、これだけ美しく見えるのだから、春、夏、秋の景色はどれほどすばらしいことだろう。いつかIT関連のセミナーに行ったときに、ゲストが話していたこと、日本は南北に長い島国で、北は流氷、南は珊瑚礁、亜熱帯雨林に湖、鮭の遡って来る河、火山にリアス式海岸、等々、こんな変化に富んだ自然に恵まれた国は、世界中においても希少であるとのことであった。この埼玉の片田舎の細い道を走ってきて、ほっと一息ついたとき、そんな日本の誇らしい姿が心に思い浮かんで来たのであった。

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