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2013/02/01

イエスさまとの関係

 洗礼を受ける前から、そして受けた後にも、「三位一体」については、良く理解できなかった。「父、子、聖霊が三つでありながら一つの神である」というキリスト教の奥義のことである。しかしこれは、私たちの救いについての理解において、とても重要なことらしいということは感じていた。全能の神が自ら地上に降り、人となり、私たちと同じ人生を歩み、悩みと苦しみを通り、罪の罰を十字架で身代わりに負われた、そのことの中に神の愛が啓示されているという。
 このイエス・キリストというお方において、神が私たちに極限まで近づいて来られたということは、確かに言えると思う。そしてこれは、他のどのような方法によっても成し得ない究極的な接近なのであった。使徒パウロが言ったように、神は私たちから遠く離れておられるのではない。しかし、神がイエスという一人の人となったのには、もう一つの目的があった。それは、イエスご自身が「わたしは、あなた方をしもべとは呼ばない。わたしはあなた方を友と呼ぶ」と言われたことと関係するのだが、主イエスは、私たちの目標でもあるのである。パウロが言っているように、「私たちは、聖霊の働きにより、日々主と同じ姿に変えられて行く」のである。そのために神は人となられたのであり、それにより、人が神から、どのような栄光の姿に創造されたか、そしてそこからどのようにして、どのような状態に堕ちてしまったか、そしてそこからどのように再生されるのかを教えられているのではないだろうか。
 これらのことは、文字通りに思い描くことは、比較的たやすいように思う。しかしそれを、「三位一体」という教理として考えたとき、とても理解できないような代物となる。なぜであろうか。それはたぶん、教理というものは、人格的な関係を抹殺してしまうからではないだろうか。キリスト教の教えは、律法や教理として表現されるが、それを暗記しただけでは、それを自分のものにすることはできない。つまり、読み覚えただけでは、自分のものにすることができないし、それを生きることもできない。ということはつまり、それで救われることはできないということだ。キリスト教は、知識ではなく、救いの御業だからである。それを受けるためには、イエス・キリストとの人格的な関係に入ることが必要である。教理の理解ではなく、教えられたことを理由なく、偏見なく、過不足なく、受け入れて信じることが求められるのである。たとえそれが理性的には矛盾したものであろうとも。その目的は、整然とした体系を作ることではなく、人を救いに導きいれることなのである。

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