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2012/07/30

戦いと勝利

第十八章
 主人が宿代を支払わずに逃げ去ったため、そこに居合わせた連中にケット挙げにされて心身共に疲れはてたサンチョもやっとそこから解放されて主人に追いついた。そして、これまでのことを振り返って、やはり村へ帰って野良仕事に精を出す方が良いのではと切り出すと、ドン・キホーテが言った。「やれやれ、サンチョよ、お前には騎士道というものがまったく分かっておらんようだな。まあ無駄口を叩かずに辛抱しておれ。そうすれば、こうしてわしと歩き回ることはいかに名誉なことは、お前の目ではっきりと見る日も来ようからな。それとも、お前は、戦いに勝ち、敵を倒すことより大きな満足が、あるいはそれに比肩する喜びがこの世にあるとでも申すのか?そんなものは何ひとつないということには、いささかの疑いもないというのに。」信仰は戦いであり、主イエスは、勝利者であり、私たちの万軍の主なのである。なぜ、私たちは、戦いを悪いこと、取るに足りないことと考えるのだろうか。それは、現代的な、経済性に着目した考えだろう。確かに戦いには、大いなる浪費がつきまとう。罪の無い人々を巻き込んだイデオロギーの争い、それには何も得るところはないだろう。しかし、真実を賭けた戦いもあり、悪の力を打ち破る戦いも確かに存在するのであり、それらを混同してはならない。いや、むしろ戦わずして、敵の意のままになることは、神の御心がこの地に行われるのを妨害しているという意味で、悪いことであり、それに対する戦いこそが神の栄光を現すことなのである。旧約聖書にたくさんの戦いが記されていて、その勝利者に栄誉が帰されていることや、主イエスが言われた「天国は激しく襲われている」という言葉、黙示録における天の軍勢と悪魔の軍勢の戦い等がそれを示しているのではないだろうか。
 しかしサンチョがさらに、これまでの戦いにおける勝率の低さや、その理由としてドン・キホーテが挙げていた敵の使う魔法等について言及すると、彼は言った、「だが、これから先わしは誰か名人の鍛えた霊剣を手に入れるように努めるつもりじゃ。いや運さえよければ、アマディウスが燃ゆる太刀の騎士と呼ばれていた時に履いていたあの剣さえ手に入らぬとも限るまい。それはかつてこの世の騎士が帯びた最高の剣のひとつだが、いま述べた魔法よけの力をそなえていたばかりか、切れ味がまるで剃刀のように鋭かったので、どれほど頑丈な、そしていかなる魔力を帯びた甲冑であろうと、その剣の切っ先に耐えることはできなかったのじゃ」と。これこそエペソ人への手紙に記されている、信仰者が身につけるべき霊の武具に他ならない。なぜ神は、信仰者をその敵から護られるのか。それは、彼が神の戦いを戦っているからに他ならない。それは、彼の利得のためではなく、純粋に神の栄光のためであり、その実現のために神は、ご自身の敵をあなたの目の前で打ち砕かれるのである。
 彼らが尚も進んで行くと、その行く手に、2群のもうもうとした砂煙が現れ、かれらの方に近づいてきた。するとドン・キホーテは、それを二つの軍勢が合戦を交えようとしていると見て言った、「おおサンチョよ、ついに運命が拙者のためにとっておいた幸運がその姿を現す日がやってまいったぞ」と。彼は、弱い方に加勢し、相手の軍勢を打ち破って武勲を立てようとしていたのであった。何という大胆不敵な態度、恐れを知らない心、これこそが万軍の主イエスに従う真の信仰者の姿と言えよう。それらの砂埃が本当に二つの軍勢の立てたものであったならであるが、不運なことにそうではなかった。実際は、それは二つの羊の群だったのであり、そこへ向かって突進したドン・キホーテは、またしても羊飼いたちの石投げに当たって肋骨2本と歯を三、四本も折る大怪我をしてしまうのであった。

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