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2012/06/28

論述:離脱について

 エックハルトは、その生涯を通じて多くの書物を読み、考え、悩み、そしてついに一つの結論に到達した。それは、一つの非常に単純な原則であり、キリスト教の提示するすべての真理がそこに含まれる。そればかりか、すべての宗教がそこに含まれ得るものである。それゆえに、他宗教はそこにキリスト教との融合の道を見る。そればかりか、心の定まらないキリスト者の中からも、他宗教との融合によりキリスト教の礎を強化しようなどという虚構を企てる者さえ出てくるのである。エックハルトの到達した信仰の原則とは、どのようなものなのだろうか。
 それは一言で言えば、「すべてを捨てることにより、神を得る」ということである。これは、非常に単純で、信仰の原理にかなっている。しかし、解りにくい面もある。まず、「すべてを捨ててから、どうするのか」ということである。しかし、エックハルトは語る、「すべてを捨てたならば、もう何も成すことは残っていない」と。あなたの信仰は、神のみにかかっているのである。「でも、何か悪い方に逸れて行ってしまったら?」。そう考える人は。まだすべてを捨てていないのである。「でも、何か悪い存在に取り付かれたら?」。そう考える人は、まだ神を信頼していないのである。「神は唯一で、他に神はない」と聖書に書かれている。その聖書は、何のためにあるのか。それを糧にして人生を豊かにするためではなく、それを読んですべてを捨てる決心をするためなのである。この観点からは、旧約聖書が非常に重要な意味を持つ。そして、私がすべてを捨てるとき、私にはただ神のみが残され、かつその神は、聖書の神以外ではないのである。「神は唯一で、他に神はない」からである。
 すべてを捨てることすなわち「離脱」が、私を神に導く道だということを認めたとしても、聖書の教える「徳」についてはどうだろうか。それには何か「離脱」以外に、もっと積極的な行為が必要なのではないのか。また、愛、哀れみ、敬虔、等についてもそうではないのか。これに対してエックハルトは語る、「純粋な離脱は、あらゆる徳、愛、哀れみ、謙虚さにも勝る」と。これらのものは、認識と愛の業であるが、「浄福は認識の内にも、愛の内にもない。むしろ、魂の内にひとつのあるものがあって、認識も愛もそこから流れ出ている。これは、魂の諸力と違い、認識もせず、愛することもしない。この『あるもの』を知ればだれでも、どこに浄福があるかわかるであろう」と彼は言う。このエックハルトの言う「あるもの」を得ることが必要であり、そのための唯一の道が「離脱」だと言うのである。
 それでは、エックハルトの言う「離脱」とは、いかなるものなのだろうか。彼曰く、「真の離脱とは、鉛でけきた山が少々の風にはびくともしないで不動であるように、襲いくるあらゆる愛や悲しみ、名誉や恥辱、誹謗に対して、精神が不動であることにほかならない。このような不動の離脱こそが神と最も等しきものになるように人を導くのである」と。聖書には、哀れみのゆえに神の意志に反するような行為は許されていない。それは、神の愛を疑うことなのである。それゆえ、自分の愛や哀れみの心よりも神の命令を優先すべきなのである。その結果、一人息子を失うことになってもである。私たちの信仰は、共に独り子を捧げたアブラハムと父なる神ご自身にかかっているのである。この一線を越えることは、大きな冒険であり、この世の知識や力をもってしては無理である。それには、どうしても聖霊の力が必要である。聖霊にすべてを明け渡し、コントロールされる体験、すなわち「聖霊のバプテスマ」が必要なのである。
 それでは、このような完全な離脱にある人は、どのような生活をしているのだろうか。彼は、霞でも食べて生きているのだろうか。しかし、エックハルトによれば、その人は一見、普通の人と見分けがつかない。離脱は、彼の内なる人においてのみ実現されているからである。彼の外なる人は、この世界の人々と共に喜び、悲しみを共にしながら生きているのであり、それがキリストに付き従うということなのである。そして、彼の意識の中心がこの外なる人から内なる人に移るとき、彼は永遠なる世界をめざして「変容」するのである。

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